信太郷
しのだごう
「和名抄」は「臣多」と訓ずるが、「万葉集」巻九に小竹田、「住吉大社神代記」に志努田、「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(一二〇一)一〇月六日条に篠田王子とあることなどから、一般には「しのだ」と訓じられたとみてよい。「和泉志」は上代・舞・尾井・太・中・上・富秋・王子(現和泉市)の八村とするが、「大阪府全志」によってこれに小野新田(現同上)を加えた地域を郷域と考えるべきであろう。
当郷は信太山丘陵とその北西の平野部を含み、原始以来の様々の歴史的営為の刻まれている地域である。当郷に西接する上泉郷の平野部に和泉地方最大の弥生時代集落遺跡である池上曾根遺跡(現和泉市・泉大津市)があり、それとの関連で弥生後期の遺跡がある。高地性集落としては惣の池遺跡があり、一部分の調査によって竪穴住居七基と平地式建物などの遺構が検出されており、そのほかに上町遺跡もある。郷内の古墳には、前期の前方後円墳黄金塚古墳がある。
信太郷
しのだごう
古代の和泉郡信太郷(和名抄)の系譜を引く中世郷。国衙領。郷域は古代のそれをほぼ継承すると考えられる。
古代の信太郷を本貫とした氏族に信太首氏がいたが(和泉国和泉郡の→信太郷)、その末裔と考えられる信太氏が国衙官人として、また鎌倉御家人として引続いて居住、活躍していた。長和三年(一〇一四)一〇月一八日の宗岡光成解状案(河野家所蔵文書)は光成が坂本・上泉両郷内山野と白木谷上津池内常荒田など二五町を私領と認めるよう国衙留守所に申入れたものだが、その四至のうち東は信太大道・黒鳥道行合で、留守所田所官人として惣大判官代信太氏が証判している。年月日未詳の兼貞珍光時論田勘注案(近衛家本「知信記」天治二年至五年巻裏文書)によると、この時光時が提出した証拠文書のなかに、永保二年(一〇八二)の池田郷字加治園内二反の畑についての信太氏の売券がある。信太氏は信太郷にとどまらず、国衙官人として他郷にも散在田を有していた。
信太郷
しだごう
「和名抄」に「信太」と記され、訓を欠く。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(山科家古文書)に「常陸国信太」とある。
信太郷
しだごう
「和名抄」高山寺本では「之多」と訓を付す。「日本地理志料」では現鳴子町中山付近とする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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