小坂庄(読み)おさかのしよう

日本歴史地名大系 「小坂庄」の解説

小坂庄
おさかのしよう

現金沢市小坂こさか町を遺称地とし、戸室とむろ山北麓から金腐かなくさり川上・中流域および浅野川中流域右岸を庄域としていたと考えられる。鎌倉期庄域に含まれたおき保は、戦国期には隣接する倉月くらつき庄域に移管されたとみられる。なお宝亀五年(七七四)と推定される一二月二四日の調田庭継の手実(正倉院文書)の裏書に「越前国加賀小坂郷」とみえる。

元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実惣処分状(天理図書館所蔵文書)に、兼実の長子故良通の室、御堂御前(花山院兼雅の娘)の所領として「加賀国小坂庄・同国勅使田」など三ヵ所がみえ、「己上本領也」と注記されている。藤原基実の室、平盛子(白川准后、平清盛の娘)から御堂御前に渡された元来の所領は能美のみ山下やました庄であったが、広すぎるという国司の訴えや領主外記大夫定信らが年貢・雑事を緩怠したため、朝廷に願出て国司に「狭少」の土地と交換させたという。御堂御前領は以後真恵房(九条良経の娘)から嵯峨禅尼へ相伝されており(「九条兼実譲状抄」九条家文書)、当庄の伝領も例外ではなかったと思われる。なお正応四年(一二九一)三月二八日後宇多上皇に送った亀山上皇書状案(安楽寿院文書)によれば「中川禅尼領加賀国小坂庄」が高倉永康父子に与えられているが、中川禅尼と嵯峨禅尼との関係は不明。

永仁七年(一二九九)三月五日には亀山上皇が禅林ぜんりる(のちの南禅寺)にいったん寄進したのち(「亀山上皇宸筆起願文」南禅寺文書)、翌正安二年(一三〇〇)七月二五日、播磨国矢野別名、同国大塩おおしお(現兵庫県姫路市)、但馬国池寺いけでら(現同県和田山町)との替地とし寺領から外している(「亀山上皇院宣案」同文書)。同三年一二月二六日の某安堵状案(勧修寺家文書)によれば坊城俊定に当庄と推定される「小坂本庄知行」が安堵されているが、乾元二年(一三〇三)頃には二条兼基に「返進」されたという(嘉暦二年八月二五日「関東下知状」海老名文書)。同下知状によれば「領家遷替之隙」をうかがって当庄のうち興・浅野あさの両方の一円地頭職を自称する海老名宗心(忠国)が二条家側の両保雑掌信智らと下地の一円支配をめぐって相論に及んでいる。宗心は両保は「重代相伝開発領」であり、「下地并公文職名田畠等」を知行しているが、二条家側の預所賢証らが「下地半分并公文職以下所職名田」を押領したと主張したが、惣領家の地頭職をねらった謀訴であると判断され、ことごとく退けられた。なお同下知状によれば、嘉禄三年(一二二七)地頭海老名忠行が興・浅野両保を海老名維家(宗心の祖父)に譲ったことが確認されるので、相模国海老名えびな(現神奈川県海老名市)に本貫をもつ御家人海老名氏が承久の乱の恩賞として地頭職を獲得したものとみられる。


小坂庄
こさかのしよう

和名抄」浅口郡小坂郷の郷名を継いだものか。鴨方町小坂西・小坂東・本庄ほんじよ地頭上じとうかみ一帯に比定される。

弘安六年(一二八三)八月一四日の六波羅御教書(三聖寺文書)に京都東福寺三聖さんしよう寺領としてみえ、雑掌が地頭庄行信の所務乱妨と年貢抑留を重ねて訴えており、同年一二月にも同様の御教書が出されている。これ以前、領家職は鳥羽院皇女五辻前斎院頌子内親王から花山院(五辻)家経―娘二条局―実忠娘―道昭(実忠子息公直)―尼西阿―慈一(東山湛照、三聖寺開基)へと伝領された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android