京都市山科区東野狐藪(きつねやぶ)町にある浄土真宗本願寺派の別院。山科別院舞楽(ぶがく)寺と称し、俗に山科西御坊ともよばれる。本願寺はもと大谷(おおたに)の宗祖親鸞(しんらん)の廟所(びょうしょ)にあったが、長い間さびれていたため、1478年(文明10)浄土真宗中興の祖蓮如(れんにょ)が山科の地に祖堂を創建、宗祖の真影を迎えて同宗の本山たる本願寺とした。しかし1532年(天文1)江(ごう)州(滋賀県)の六角定頼(さだより)の兵および京都の法華(ほっけ)宗徒の来攻にあって堂舎が焼き払われ、本願寺は大坂の石山に移された。その後久しく廃墟(はいきょ)と化していたのを、いまの地に1732年(享保17)西本願寺15世住如(じゅうにょ)が山科講の請いを受けて北山別院の旧堂を移して再興したのが、現在の山科別院舞楽寺の始めである。近くに蓮如(8世)、実如(じつにょ)(9世)、証如(しょうにょ)(10世)の墓がある。また山科区西野今屋敷町には山科東御坊とよばれる真宗大谷派の山科別院長福(ちょうふく)寺がある。これも起源を同じくするが、1732年東本願寺17世真如(しんにょ)が再興したものである。
[森 章司]
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京都本願寺・野村殿とも。京都市山科区にあった本願寺8世蓮如が創建した寺。1465年(寛正6)延暦寺により親鸞廟が破壊されると,蓮如は各地を転々として布教,78年(文明10)山科の地に堂舎をたて,親鸞の画像を安置し,終生の布教の拠点とした。蓮如は同寺で死去。寺内町が発達し,一宗の本山として栄えたが,1532年(天文元)六角定頼や日蓮宗徒に襲撃されて壊滅。近世には東西両派の山科別院がたてられた。南殿跡・土塁は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…農民を対象とする蓮如の布教は,ちょうど彼らが展開した支配者への闘争の時運に合致し,吉崎御坊は北陸農民の闘争拠点となった(加賀一向一揆)。その混乱を避け,75年蓮如は吉崎を去り,近畿の布教に従事した後,80年京都山科に山科本願寺を建て本拠とした。蓮如は積極的な教化により末寺・門弟を組織化し,本願寺教団を一大勢力として確立した。…
…山科家の史料は,東京大学史料編纂所,国立公文書館内閣文庫,宮内庁書陵部などに膨大な量が残されており,郷村内のことがよくわかる。1478年(文明10)には浄土真宗の山科本願寺が設置され,1532年(天文1)8月に柳本信尭,六角定頼らが法華宗徒を率いて本願寺を焼くまで,真宗の本拠地であり,その間,本願寺の寺内町として栄えた。【藤本 孝一】 山科の地は近世も引き続き禁裏御料(皇室領)が多く,1601年(慶長6)徳川家康が京都近郊に設定した御料1万石の約6割がここである。…
…78年山科野村に坊舎の造営をはじめ,82年完成した。いわゆる山科本願寺である。88年(長享2)5月,加賀の一向一揆がおこり,6月守護富樫政親を滅ぼす。…
※「山科本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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