倉沢村(読み)くらさわむら

日本歴史地名大系 「倉沢村」の解説

倉沢村
くらさわむら

[現在地名]東和町倉沢

浮田うきだ村の東、砂子いさご村の南西に位置し、毒沢どくさわ(猿ヶ石川支流)上流の山間に立地。安俵小原系図(菊池文書)によれば小原義郷は足利氏満から本領七郷を安堵されて狭良城次郎肥前と称し、更木さらき(現北上市)に居館していたが、倉沢郷に居を移し、応永元年(一三九四)没した。子の政継は同七年安俵あひよう村に移居し以後安俵城を本城、当地の倉沢館を支城としたとみられる。天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)の地下士(堪忍衆)のなかに倉沢小平治がみえる。

慶長八年(一六〇三)江刺氏家臣三ヶ尻加賀恒逢が南部利直から「倉沢村三百石」を与えられている(一〇月一四日「南部利直知行宛行状」盛岡三ヶ尻文書)


倉沢村
くらさわむら

[現在地名]江刺市稲瀬いなせ

三照みてり村の東に位置し、北東部小倉沢こくらさわ山・愛宕あたご山などの山地、そのほかは北上川と広瀬ひろせ川に挟まれた沖積平地に立地。東部を広瀬川が南西流する。蔵沢とも書かれた。古代安倍氏の城柵の一である鶴脛つるはぎ柵の擬定地がある。康永三年(一三四四)六月五日の平忠泰打渡状(中尊寺文書)によれば、忠泰は中尊寺別当領として江刺郡倉沢村などを別当代頼禅房に引渡している。応永二八年(一四二一)一一月一九日の法眼頼栄譲状(同文書)には平泉中尊寺の「金色堂十月十講田一町・在家(一宇カ)・倉沢村在之」とみえ、他の中尊寺別当職領などとともに頼栄から松女御前に譲られている。


倉沢村
くらさわむら

[現在地名]菊川町倉沢

友田ともだ村の北東、菊川上流部の牧之原まきのはら台地南西部に位置する。大治四年(一一二九)と推定される質侶牧四至注進状(陽明文庫蔵宗性筆最勝講聴衆記裏文書)に庄内の村々が列挙され、なかに黒沢村がみえる。また東光とうこう(現島田市)所蔵の鰐口には文安五年(一四四八)一二月吉日の銘があり、質侶しとろ庄黒沢の山御宮に奉納されている。質侶庄(牧)の庄域は現金谷かなや町・島田市などの大井川南岸であり、現菊川町北東端に位置する倉沢は、庄域と確認される金谷町南部に接するなど庄域に含まれた可能性が高い。


倉沢村
くらさわむら

[現在地名]君津市豊英とよふさ

怒田沢ぬたざわ村の南、小糸こいと川上流に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四七石。寛永一八年(一六四一)から市宿いちじゆく村と同じく旗本曾根領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二四。宝暦一二年(一七六二)名主儀右衛門と安房から来村した里見倉沢により川回し工事が完成した(清和村誌)。明治一〇年(一八七七)奥畑おくはた村と合併し豊英村となる。字花輪はなわに熊野神社(宿原三島神社摂社)がある。元禄五年(一六九二)に熊野権現宮を造立、天保四年(一八三三)には権現本社ならびに拝殿を再建。


倉沢村
くらさわむら

[現在地名]朝日村倉沢

仙納せんのう村の西、摩耶まや山麓に位置し、大鳥おおとり川支流倉沢川の両岸に集落がある。蔵沢とも記した。地内に中世の倉沢館跡がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高五〇石余。正保郷帳では田高四八石余・畑高四石余。弍郡詳記では高六四石余、免四ツ八分一厘、家数二〇。文政元年(一八一八)の人別改帳(南支所文書)では人数一〇九。慶応三年(一八六七)検地帳(同文書)によれば反別は五町七反余。


倉沢村
くらさわむら

[現在地名]鹿角市十和田大湯とわだおおゆ 倉沢

大湯川左岸段丘上に位置し、一本木いつぽんぎと接する。大湯―花輪はなわを貫く道が集落西方を通る。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高二〇石八斗余でうち蔵分一〇石二斗余、民戸八軒、馬一六匹。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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