備前島町(読み)びぜんじまちよう

日本歴史地名大系 「備前島町」の解説

備前島町
びぜんじまちよう

[現在地名]都島区網島あみじま町、東区京橋きようばし一―二丁目

大坂三郷北組に属し、淀川鯰江なまずえ川・寝屋川合流口に形成された三角洲状の地にある細長い町。南の相生西あいおいにし町の西端より当町へ鯰江川に公儀橋の備前島橋が架かる。この橋は俗に「おりばし」とよばれた(宝暦町鑑)。また淀川対岸の川崎かわさき(現北区)へは川崎渡で結ばれ、渡口の上手に過書船番所、下手に伝馬会所があった。備前島の名について「寛政重修諸家譜」に、近江鯰江城(現滋賀県愛知郡)城主毛利(森)備前守定春は、天正一四年(一五八六)豊臣秀吉から摂津で一領を与えられ、「定春が住せし地を、今にいたるまで備前島鯰江堤といふ」とみえ、定春は大長だいちよう寺に葬られたという。また秀吉の将である備前宰相(宇喜多秀家か)が、この地に邸を構えたことによるとも伝え、大坂冬の陣の慶長一九年(一六一四)一二月、徳川家康秀忠が東軍の手に帰した備前島を視察している(駿府政事録・大坂御陣覚書)


備前島町
びぜんじまちよう

中京区蛸薬師通河原町東入

町の東側を高瀬たかせ川が南流し、北寄りを東西蛸薬師たこやくし通が通る。

町名は、筆描図系の寛文末洛中洛外大図に、町内北側の横筋が「ならや町」、同南は「しおや町」、また、高瀬川西岸は「土佐殿ほりばた」とある。木版図系では、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「豊前島の町」としているが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「備前島」とあり、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成では南北の横筋とも「びぜんしま丁」と記す。「坊目誌」は「高瀬川開渠の時備前より舟師を招きて居所とす。故に町称と為す」としているが、江戸時代前期は「豊前島」としており、「備前」「豊前」のどちらが正確であるかは定めがたい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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