中国、梁(りょう)代の学僧。「そうびん」ともいい、住した寺の名から荘厳(しょうごん)ともいう。法雲、智蔵とともに、梁の三大法師の一人。俗姓は孫氏。呉(ご)郡(江蘇(こうそ)省蘇州)富春の人。7歳で出家し、虎丘(こきゅう)の西山(せいざん)寺に住し、僧回(そうえ)の弟子となる。13歳のとき建康(南京(ナンキン))の白馬寺に移り、さらに16歳のとき荘厳(しょうごん)寺に住して曇景(どんけい)に師事し、また僧柔(そうじゅう)(431―494)、慧次(えじ)(434―490)について経論を究めた。南斉(なんせい)の文恵太子(ぶんけいたいし)(458―493)、竟陵(きょうりょう)王蕭子良(しょうしりょう)(460―494)などの敬重を受け、492年26歳で初めて『成実論(じょうじつろん)』を講じて名を馳(は)せた。『注般若経(ちゅうはんにゃきょう)』を著し、梁の武帝(蕭衍(しょうえん))の勅を奉じて碩学(せきがく)30人とともに『衆経要抄(しゅきょうようしょう)』80巻を撰(せん)した。
[伊藤隆寿 2017年2月16日]
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…608年(推古16)隋使裴世清の帰国のさい派遣された小野妹子に同行し,高向玄理(たかむくのくろまろ)・南淵請安(みなぶちのしようあん)らとともに渡隋。《日本書紀》で新漢人日文(にちもん)とあるが,帰国した632年(舒明4)以降はすべて僧旻と記す。仏教,天文に通じ,中臣鎌子,蘇我入鹿など貴族の子弟を集めて周易を講じたことが《大織冠伝》にみえる。…
…この進言は,630年(舒明2)の第1次遣唐使として実現し,これ以後9世紀半ばまでに十数回の遣唐使が派遣されることになる。また第1次遣唐使帰国の際には,二十数年間中国に滞在していた僧旻(みん)(新漢人旻(いまきのあやひとみん))ら留学生もいっしょに帰り,さらに10年後には,留学生の南淵請安(みなぶちのしようあん),高向玄理(たかむくのくろまろ)らも唐から帰国した。彼らは,隋が滅び唐の国家が形成される経過を目のあたりに見てきたと推測されるが,彼らの知識と体験は,大化改新の際に重要な役割を果たした。…
…これ以後,古代の留学生はすべて男性と推定される。 7世紀初めに久しく中絶していた中国王朝との外交が再開されると,608年(推古16)遣隋使小野妹子に従って,高向玄理(たかむくのくろまろ),僧旻(新漢人旻(いまきのあやひとみん)),南淵請安(みなぶちのしようあん)ら8人の学生・学問僧が隋に渡った。彼らは,二十数年から三十数年の長期間にわたって中国に滞在し,隋が滅び,唐が興ってくる中国の社会を実見して帰国し,大化改新に始まる律令国家の建設に大きな役割を果たした。…
※「僧旻」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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