デジタル大辞泉
「旻」の意味・読み・例文・類語
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普及版 字通
「旻」の読み・字形・画数・意味
旻
8画
[字音] ビン
[字訓] そら・あきぞら
[説文解字]
[字形] 形声
声符は(文)(ぶん)。〔説文〕七上に「秋天なり」とあり、〔爾雅、釈天〕の文。また「書に曰く、仁閔(じんびん)にして下を(おほ)ふは、則ち旻天とす」と〔古尚書〕説を引く。秋天説は今文家の説である。金文の〔毛公鼎〕に「天(びんてん)疾畏」とあり、天は時期に関しない語であった。〔詩、大雅、召旻〕〔詩、小雅、雨無正〕にも「旻天疾威」の語があり、〔左伝、哀十六年〕に孔子が没したときの哀公の誄(るい)辞に「旻天不弔(ふしゆく)(不淑)にして、(なまじ)ひに一老を(のこ)して、余(われ)一人を(たす)けて以て位に在らしめず」という。仁閔の意を含むとは思われない語である。
[訓義]
1. そら、あきぞら。
2. 閔(びん)と通じ、うれい、あわれむ。
[古辞書の訓]
〔名義抄〕旻 ヒロシ・ハルカ・シボム・カナシブ 〔字鏡集〕旻 ヒロシ・ハカル(ルカ)・カナシブ・シボム・ウレフ・アキノハテ
[熟語]
旻宇▶・旻雲▶・旻穹▶・旻序▶・旻蒼▶・旻天▶
[下接語]
九旻・穹旻・高旻・秋旻・清旻・蒼旻・霜旻・澄旻
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旻(日本)
みん
(?―653)
7世紀前半の学問僧。新漢人(いまきのあやひと)旻、日文(にちもん)とも記す。608年(推古天皇16)に小野妹子(おののいもこ)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)らとともに遣隋(けんずい)留学僧として中国に渡り、632年(舒明天皇4)に帰国。仏教はもとより、天文にも通じ、中臣鎌子(なかとみのかまこ)(藤原鎌足(かまたり))や蘇我入鹿(そがのいるか)などに周易を講じていたという。645年(大化1)蘇我本宗滅亡後の新政権では、高向玄理とともに国博士(くにはかせ)となり、十師の一人でもあり、新政府の顧問的な立場であったらしい。650年(白雉1)に穴門(あなと)(長門(ながと)国)から白雉が献上されると、その祥瑞(しょうずい)としての意義を奏している。とくに孝徳(こうとく)天皇の信頼が厚く、653年の病にあたっては「もし法師今日亡なば、朕(ちん)従ひて明日亡なむ」と勅し、死にあたっては皇極(こうぎょく)上皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らとともに弔使を遣わしている。のち、その菩提(ぼだい)を弔うために川原(かわら)寺に仏像を安置したという。
[佐藤宗諄 2017年10月19日]
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旻
没年:白雉4.6(653)
生年:生年不詳
7世紀中ごろの僧侶。僧旻,旻法師,釈僧旻,日文などさまざまに表記されるが,もとは旻という一字名で,上に僧字を冠したものであろう。梁の高僧で荘厳寺の僧旻にちなむ名かもしれない。大和の高市の檜前に住んだ百済系または加耶の一国安羅(安耶,韓国慶尚南道咸安)から6世紀後半に渡来した新漢人の出で,本来中国人であった可能性が強い。推古16(608)年遣隋使小野妹子らに従って隋に留学した学生,学問僧8人のうちのひとり。舒明4(632)年遣唐使犬上御田鍬らと共に24年ぶりに帰国。『家伝』によれば,帰国後,学堂を開き,隋唐での研鑽の成果にもとづいて中臣鎌足,蘇我入鹿らに儒教を講じた。皇極4(645)年蘇我氏滅亡後の新政権に参加し,高向玄理と共に国博士となり,ブレーンの役割を果たした。大化1(645)年僧侶統制のための十師制を発案して自らそのひとりとなったり,同6年,白雉の出現に際し祥瑞改元を提唱したりして,孝徳朝の諸改革に主導的な働きを示し,即位前から交わりのあった孝徳天皇(軽皇子)の信頼も篤かった。<参考文献>遠山美都男『大化改新』
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旻
みん
[生]?
[没]白雉4(653).6. 近江
古代の学僧,入唐学問僧。新漢人 (いまきのあやひと) 日文ともみえている。推古 16 (608) 年遣隋使小野妹子に従って中国に渡り,留学生活 24年の間,仏教のほか周易などを学び,舒明4 (632) 年遣唐使犬上御田鍬 (みたすき) に従って帰国。彼の周易の講義は中大兄皇子や中臣 (藤原) 鎌足ら大化改新の主導者や蘇我入鹿も聴講した。改新政府発足にあたって国政諮問機関である国博士となり,大化1 (645) 年衆僧を教導する十師となった。中央官制の制定に尽力し,死去にのぞんで,皇極天皇 (→斉明天皇 ) によって仏菩薩像が造立され川原寺に安置された。白雉5 (654) 年7月阿曇 (あずみ) 寺で没したともいわれる。
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旻
みん
?~653.6.-
7世紀の僧。608年(推古16)9月,遣隋使小野妹子に従って高向玄理(たかむこのげんり)・南淵請安(みなぶちのしょうあん)らと入隋し,632年(舒明4)8月帰朝。帰国後,蘇我入鹿(いるか)・藤原鎌足(かまたり)らに「周易」を講じた。637年流星があった際に天狗の吠声であると主張し,さらに639年彗星出現により飢饉を予告するなど,祥瑞思想に詳しかった。大化の改新後,645年(大化元)高向玄理とともに国博士となり,十師(じっし)の一員にも任じられた。649年高向玄理と八省・百官の制を起案し,翌年穴戸(あなと)国司から白雉が献上されると,その祥瑞を説いて白雉(はくち)改元となった。653年(白雉4)5月病気となり,孝徳天皇の見舞をうけ,翌月没した。
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旻 みん
?-653 飛鳥(あすか)時代の学問僧。
推古天皇16年(608)遣隋使小野妹子(いもこ)にしたがい,隋(ずい)(中国)に留学。舒明(じょめい)天皇4年(632)帰国。大化(たいか)の改新後は国博士として高向玄理(たかむこの-くろまろ)とともに新政権に参画,孝徳天皇に信任された。白雉(はくち)4年6月死去。新漢人日文(いまきのあやひと-にちもん)ともいう。
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旻
みん
?〜653
7世紀の渡来系学問僧で,大化の改新の政治顧問
608年遣隋使小野妹子 (おののいもこ) に従い学問僧として渡隋し,632年帰国。645年大化の改新に際し高向玄理 (たかむこのげんり) とともに国博士に任命され,改新政府の政策を立案した。
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