荘厳寺(読み)しようごんじ

日本歴史地名大系 「荘厳寺」の解説

荘厳寺
しようごんじ

[現在地名]熊本市妙体寺町

妙体寺みようたいじ町の北東端に位置し、西隣は妙体寺、北裏は国道五七号(豊後・大津街道)で、荘厳寺の裏から菊池往還が分岐し、荘厳寺正門前を妙体寺通が通る。壺龍山と号し、浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来。「国誌」に「寛永三年池泉造立之」とある。しかし同寺にある寺記によると「当地ハ素古戦場ノ跡ト称セラル、即チ天文年中肥前龍造寺ト島津勢トノ戦闘累月不決ルノ地ナリト云ヒ、当時既ニ天台宗南覚院ト称スル古刹ガ現荘巌寺ノ前身是レナリ、往時ヨリ今ノ妙体寺町ヲ近時迄南覚町ト呼称スルハ是レ故ナリ」と記し、荘厳寺建立以前に南覚なんがく(南嶽院)という天台宗寺院があったという。


荘厳寺
しようごんじ

[現在地名]仙台市新坂町

満勝まんしよう寺の北東にある浄土宗の寺。功徒山と号し院号は成就院、本尊阿弥陀如来。「封内風土記」に存蓮社良把上人開山という。明治三年(一八七〇)宮城県の当寺進達書によれば、本材木もとざいもく町に鬼同庄兵衛なる熱心な仏法の道心者がいて、藩祖政宗のためにとくに町屋敷を求めて仏堂を設けて国家安全を祈念した。さらに一寺建立の念願を立て京に上り、三条通法林ほうりん(現京都市左京区)住職袋中に請い寺山号を申受け、袋中を開山とした。庄兵衛は弟子となり良把と号した。元和二年(一六一六)北山きたやまの荒野を拝領して一宇を建立したのが現在の寺地である。のち二代藩主忠宗や四代綱村などがしばしば訪れ茶会などを設け、知行の沙汰もあったが、当時の住職が固辞して受けなかったといわれる。


荘厳寺
しようごんじ

[現在地名]真岡市寺内

寺内てらうちの南西部、字東宿ひがしじゆくにあり、大御堂山東福院と号し、天台宗、本尊は三尊仏阿弥陀如来、前立阿弥陀如来、脇侍不動明王・多聞天。寺伝によれば天長九年(八三二)慈覚大師円仁が自作の観世音菩薩像を安置して創建し、寺号妙法寺とした。承和年間(八三四―八四八)、円仁が唐より帰国してから、唐より招来した阿弥陀三尊仏を本尊に改めて御堂山と称した。その後衰退したものを英尊阿闍梨が再建し、境内に一七坊の支院を置くに至って大御堂山荘厳寺と改称したという。源氏との由縁が深いとされ、頼義・義家らの陵奥の安倍氏・清原氏らの攻撃、文治五年(一一八九)頼朝の平泉藤原氏攻撃および建久四年(一一九三)那須野狩猟に際し、いずれも当寺に祈願し本願を達して奉賽、寺領寄進などがあった。


荘厳寺
しようごんじ

[現在地名]深浦町深浦 岡町

日本海を眼下に眺望する小高い所に位置し、宝泉ほうせん寺の向いにある。亀井山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀仏。享和三年(一八〇三)の寺社領分限帳(国立史料館蔵)によれば、転入山と号し寛永九年(一六三二)の創立で良蒙が開山とある。「新撰陸奥国誌」では亀井山と号し、永禄元年(一五五八)廓存の草創とある。寺号は転入山から亀井山へ変わったと推定される。

天明三年(一七八三)七月天明の大飢饉で、深浦にも富商への打毀が起こった。


荘厳寺
しようごんじ

[現在地名]下京区本塩竈町

仏光山と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。応永一二年(一四〇五)遊行一一代義縁が高辻堀川たかつじほりかわ(現下京区西高辻町)開基した寺で、高辻道場とも称せられた(坊目誌)。「康富記」文安五年(一四四八)正月二七日条に、南朝の円満院前門主義有王の首級をかも川の七条河原にさらすか否かが問題となり、一時荘厳寺に置いたことが記される。天正一九年(一五九一)豊臣秀吉の命により現在地に移転。


荘厳寺
しようごんじ

[現在地名]矢部村矢部

所野ところのにある。浄土真宗本願寺派。関西山と号し、本尊は阿弥陀如来。正平年間(一三四六―七〇)大淵おおぶち(現黒木町)月足つきあしに創建された天台宗寺院が前身で、文安二年(一四四五)三世正円坊宗林が蓮如の教えを聞いて改宗したという。慶長年間(一五九六―一六一五)七世円宗のとき京都本願寺末となり、所野に移転。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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