中国、南朝梁(りょう)の皇帝(在位502~549)。廟号(びょうごう)は高祖。諡号(しごう)は武帝。蘭陵(らんりょう)(もと山東省、当時は江蘇(こうそ)省武進)の出身で、父は南斉(なんせい)王朝の建国者蕭道成(しょうどうせい)の族弟にあたる。南斉末、雍州刺史(ようしゅうしし)として襄陽(じょうよう)にいたが、兄が南斉末の暴君東昏侯(とうこんこう)に殺されたのを機に挙兵し、都の建康(南京(ナンキン))を襲って南斉を滅ぼし、梁王朝を建てた。彼の治世は50年近くの長期にわたったが、その初期には官制の改革をはじめとする諸種の政策によって、頽廃(たいはい)していた南朝の貴族制の改革に努め、比較的安定した時代となった。彼自身は熱心な仏教徒であるとともに、多数の著述もある知識人でもあり、南朝仏教の黄金時代を招いたが、晩年は仏教に溺(おぼ)れて政治が顧みられなくなり、ついに北朝の反臣侯景(こうけい)によって建康を落とされ、幽閉されて死んだ。陵は順陵(丹陽)。
[中村圭爾]
『森三樹三郎著『梁の武帝』(1956・平楽寺書店)』
464~549(在位502~549)
南朝,梁(りょう)の初代皇帝。諡は武帝,廟号は世祖。南蘭陵(なんらんりょう)(江蘇省武進県)の人。地方官から挙兵して斉を滅ぼし,名族を用いて律令を制定,中正制度を改革,流民の安定を図り,士庶の混合を正し,南朝文化の黄金時代を現出した。後半期には仏教に傾倒し,侯景(こうけい)の乱中に没した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…これにとって代わったのが斉(南斉)であり,南斉も宋とよく似た政治過程を経て,梁に滅ぼされた。南斉と梁の建設者蕭道成(高帝)および蕭衍(しようえん)(武帝)の出身した蕭氏は寒門士族であり,蕭道成も蕭衍も北魏との国境地帯(江北・淮南(わいなん))に配置された軍司令官であった。現地にはかつて華北から避難してきた人々が居住しており,それを指導する土着豪族たちは中央の門閥貴族から寒門視された。…
…在位502‐549年。姓名は蕭衍(しようえん)。南蘭陵(江蘇省常州市)の人。…
…中国,梁(南朝)の元帝の政権が西魏によって滅ぼされた後,江陵(湖北省江陵)に建てられた王朝。555‐587年。後梁とよばれる。初代天子の蕭詧(しようさつ)は梁の武帝の孫,昭明太子の第3子。西魏・北周・隋の3代にわたって北朝の傀儡(かいらい)王朝として存在し,境域もせまく,軍政長官たる江陵総管のきびしい監視のもとにおかれた。政治的にはまったく無力であったが,江南の文化を北朝に伝えるうえで一定の役割を果たした。…
※「蕭衍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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