光学機械工業(読み)こうがくきかいこうぎょう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

光学機械工業
こうがくきかいこうぎょう

レンズやプリズムといった光学部品と精密機器、および電子機器とを組み合わせて光学機械を生産する精密機械工業に属する工業である。具体的に光学機器には、カメラおよびその付属品、顕微鏡、望遠鏡、映画用機械、そして光学機械用のレンズやプリズムなどがある。[大西勝明]

歴史

光学機械の歴史は古く、顕微鏡は1590年にオランダのヤンセンZ. Janssen(1580―1638)が父とともに発明しており、望遠鏡は1608年に同じくオランダのリッペルスハイH. Lippershey(1570―1619)が、そして写真技術は1837年にフランスのダゲールが発明している。日本では1882年(明治15)ごろ、小西六右衛門(ろくえもん)(1847―1921)がカメラ製作に着手しているし、また1911年(明治44)には藤井竜蔵(りゅうぞう)(1871―1947)が最初の国産双眼鏡をつくっている。
 双眼鏡の場合ははやばやと輸出にこぎつけているが、日本の光学機械工業の形成に重大な影響を与えたのは第一次世界大戦であった。第一次世界大戦時、欧米からの輸入が中断され、光学機械の国産化が課題となったのである。こうした状況下で、1917年(大正6)に光学兵器生産に重点を置いた日本光学工業(現、ニコン)、1919年に顕微鏡メーカーの高千穂(たかちほ)製作所(現、オリンパス)、双眼鏡を生産する旭(あさひ)光学工業(のちのペンタックス。現、リコー)、1933年(昭和8)には精機光学研究所(現、キヤノン)と、主要企業の設立が続いている。こうして日本の光学機械工業は、第二次世界大戦時までには、軍事生産への傾斜を強めながらも、技術的に一定の水準に達した国産品を生産するまでになっている。1942年の職工5人以上の光学機械製造事業所数は312、従業者数は1万2796人、生産額は5049万円であった。[大西勝明]
光学機械工業の躍進
第二次世界大戦後、光学機械工業はさらに躍進を遂げることになる。この過程で特徴的であったことは、第一に、戦争中の光学兵器生産の経験、蓄積が生かせたこと、第二に、新製法および新製品開発が続いたこと、第三に、カメラ、双眼鏡、望遠鏡、顕微鏡等の生産業者が強い国際競争力を基礎に輸出を進め、外貨獲得に貢献し、かつ内需拡大をも実現したことである。まず、戦時中に光学兵器生産を担っていた多くの企業が、平時光学機械生産に転換した。光学兵器生産によって培ってきた技術、ノウハウ、良質なガラスやレンズ、優秀な技術者、熟練労働者などが、戦後の光学機械工業の重要な基盤となっている。そして、1947年(昭和22)には早くも双眼鏡の輸出が行われている。同じ時期、カメラは、アメリカからの援助物資に対する重要な見返り品であった。カメラ、双眼鏡、顕微鏡とも外貨を獲得しうる貴重な商品であり、アメリカを中心に海外に大きく依存した展開をし、かつて強力であった当時の西ドイツの地位を脅かしていた。[大西勝明]
分業生産体制の確立
光学機械生産には小規模企業でも参入可能であったことから、中小企業が光学機械工業の過半を占めていた。こうした中小企業は、第二次世界大戦前に支配的であった大企業による双眼鏡等の一貫生産体制に対し、生産工程を分割し、それぞれを別々の企業が専業化して担っていく分業生産体制を確立した。この分業生産体制により、部品や製品の均質性、耐久性、コストダウン、そして大量生産が達成されていく。カメラの場合も、1952年の通商産業省(現、経済産業省)産業合理化審議会の答申をよりどころに、シャッター、ボディー、レンズ等の部品の規格化と各企業による専門化が追求されている。それまで各企業で別々に生産していたシャッターについては、コパル光機製作所(現、日本電産コパル)と服部(はっとり)時計店工場精工舎(現、セイコープレシジョン)での集中生産が開始されることになる。分業生産体制、特定企業での部品の集中生産により、カメラの品質の向上、量産化、コストダウンが可能となっている。生産体制のみでなく、製品開発の面でも、たとえば、主要5社による共同開発により、1952年には新種光学ガラスが開発されている。[大西勝明]
カメラの高度化・大衆化
さらに高度経済成長期に、カメラの高度化、大衆化が進むことになる。1959年のハーフサイズカメラの開発、1963年の距離計・自動露出計をシステム化して組み込んだEE(Electric Eye)カメラの出現などは画期的なものであり、とくに後者は、カメラ生産を少機種大量生産へと移行させた。その後もエレクトロニクス技術の導入を進め海外市場を制覇するまでになっている。双眼鏡の場合も1960年のボディーのダイカスト化、1965年の大型白金タンク炉による光学ガラスの連続溶融、自動プレス化などの実現やダハ式双眼鏡の開発が試みられていた。ただ、双眼鏡は、1960年代後半には生産が低迷している。顕微鏡も1963年ごろから生産が落ち込むが、半導体生産と関連した双眼実体顕微鏡の伸びなどがあり、1960年代後半には盛り返している。1980年代には、自動焦点一眼レフカメラが製品化されており、また、レンズシャッター式35ミリカメラ、カメラ用交換レンズ等の生産の上昇により、1990年代初頭まで、光学機械メーカーは、好業績を達成している。しかし、バブル経済崩壊以降、光学機械の生産額は低落傾向にある。とりわけ、レンズシャッター式カメラの低迷が著しく、1998年(平成10)には、アメリカを中心に輸出が落ち込みをみせた。[大西勝明]
デジタルカメラの登場
他方で、デジタルカメラが登場してくる。1995年、カシオによる「QV-10」というデジタルカメラの市場投入を契機に、デジタルカメラの生産が急拡大した。一眼レフカメラ開発で培ってきたノウハウとイメージセンサー、画像処理に関するデジタル技術との融合が実現され、デジタル一眼レフカメラが製品化されている。デジタル一眼レフカメラは、CCD(撮像素子)の活用、手ぶれ補正等、フィルム使用の銀塩カメラにはなかった機能を伴って急速な市場拡大を果たすことになる。そして、デジタルカメラの開発や生産には電気機器メーカーの参入があり、次々と新しいデジタルカメラが台頭してきた。2000年(平成12)には生産額で、2002年には生産台数でデジタルカメラの生産額が、銀塩カメラを上回り、それ以降、デジタルカメラの生産ウェイトが圧倒的となる。レンズ一体型のコンパクトカメラの開発に続き、レンズ交換型デジタル一眼レフカメラ、さらに、ミラーレス一眼カメラの開発が継起している。だが、2005年には、デジタルカメラの生産額が前年を下回るという事態が生じている。生産台数はそれ以降、2008年の約1億台まで、鈍化しながらも増加を続けるが、2005年までの驚異的な生産拡大傾向は頓挫(とんざ)している。デジタルカメラの生産は、カメラ機能付き携帯電話、スマートフォン等に影響され、頭打ちとなった。[大西勝明]
産業再編成
21世紀初頭、光学機械工業においては、デジタルカメラの台頭、海外生産の拡大、国際化の進展、輸出の減少、そして、参入と撤退、産業再編成が生起している。たとえば、ニコンは、フィルム一眼レフカメラ事業を縮小し、デジタル一眼レフカメラに重点を移行している。2003年には、コニカとミノルタが経営統合して持株会社コニカミノルタホールディングスが誕生するが、その後2006年には、コニカミノルタはカメラ事業およびフィルム事業から撤退。カラーフィルムの生産を中止し、人員削減を実行している。デジタル一眼レフカメラに関連する一部資産はソニーに譲渡された。光学機器メーカーの市場退出とは対照的に、電気機器メーカーが、光学機器メーカーの設備を引き継ぎ、一眼レフデジタルカメラ市場への参入を果たした。ソニーは、2006年からコニカミノルタからデジタル一眼レフカメラ事業を継承し、新たなデジタル一眼レフカメラの開発に着手し、電気製品の生産ラインをデジタルカメラ工場に転換している。2005年に、松下電器(現、パナソニック)もオリンパスとデジタル一眼レフカメラの共同開発に合意している。オリンパスや京セラは、2005年に、普及価格帯のデジタルカメラ生産からの撤退を決定している。フィルムのトップメーカーの富士写真フイルムは、2006年、社名から「写真」を排除し、富士フイルムと改称し、カラーフィルムや印画紙など写真感光材料部門のリストラクチャリングに着手している。[大西勝明]
海外生産の拡大
また、カメラやレンズの出荷額の過半は海外向けとなっているが、カメラメーカーは、積極的に海外進出を試みている。1960年代の先駆的なヤシカ(1983年に京セラが吸収合併。2007年以降は香港(ホンコン)のJNCデイタム・テック・インターナショナルのブランド)の香港進出に続き、次々に海外拠点を拡張している。とくに、1990年代末から2000年代にかけて国内売れ行きの不振、円高傾向のもとで、カメラ生産の海外移転、海外での生産拠点拡大が急増した。産業再編成の動向、ないし1990年代の円高が、フィルムカメラ部門の海外進出、アジア移転やレンズメーカーの海外生産を促進した。その際、国内でデジタルカメラの生産を維持し、銀塩カメラの生産を台湾、中国に移管するというのが大きな潮流となっている。デジタル化とともにグローバルな展開を余儀なくされ、中国への生産移転、中国市場における販売開拓が進展しており、中国拠点を軸に国際的な生産体制の拡充により、競争優位を確立しようとしている。シャッターをはじめとする多数の部品メーカーが、海外生産拠点の構築を進めており、完成品メーカー以上の国際化対応を推進している。台湾企業を軸にしたOEM生産(相手先ブランド生産)も拡大している。[大西勝明]

近年の生産動向

前述したような国際展開にもかかわらず、21世紀に突入してカメラ生産等は、低迷傾向をたどっている。リーマン・ショック時の2008年、約1兆7635億円であったデジタルスチルカメラの生産額は、2014年には約7130億円となり、半分以下に減少した。同期間、デジタルスチルカメラの日本国内向け出荷額は2631億円から1384億円に、日本国内向け以外の出荷額は1兆9009億円から8261億円へといずれも約半減している。他方、2008年に2473億円であったレンズ交換式カメラ用レンズの生産額は、2014年には約2778億円に増大した。関連して、同じ時期、レンズ交換式カメラ用レンズの日本国内向け出荷額は約473億円から656億円へ、日本国内向け以外の出荷額は3018億円から3826億円になっている。こうした動向とともに、主たる輸出先が、ヨーロッパから北米、アジアへとシフトしている(カメラ映像機器工業会/会員統計)。
 さらに、2008年の光学機械・レンズ製造業全体の事業所数は788、従業者数は、3万4299人であったが、2013年にはそれぞれ、523と2万2972人となり、この間、事業所数で376、従業者数で1万1327人、約3割の縮小が認められる。その内訳である写真機・映像用機械・同付属部品製造業は、同期間に事業所数が309から167、従業者数は、9958人から4539人に減少している。光学機械用レンズ・プリズム製造業では事業所数が379から276に、従業者数は2万0834人から1万5018人に減少した。顕微鏡・望遠鏡等製造業は、光学機械・レンズ製造業全体に占めるウェイトを縮小しており、同期間、事業所数は100から80に、従業者数は3507人から3415人に減少した(『2013年工業統計表』従業者4人以上の事業所に関する統計表)。低迷傾向のなかで、特殊な医療用機器やネットワークカメラ(IPカメラ)の開発が進み、生産が増加している。それでも、デジタルカメラ世界市場での日本企業は優位な状態にあるが、ミラーレス一眼カメラの開発に関する参入障壁等は高いものではなく、ハイエンド機器(上位機種)の開発では、オランダのASML社やドイツのカール・ツァイス社が開発力を強化しており、他方、ローエンド(廉価機種)の領域では、中国、韓国、台湾製品が台頭してきている。中国、韓国、台湾企業は、レンズやカメラの開発を進め、生産を高度化し、日本の光学機械工業を動揺させている。[大西勝明]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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