写真の発明者として知られるフランスの画家兼興行師。パリ郊外に生まれ、建築、絵画を学んだのち、パリ・オペラ座の舞台美術画家を経て、1822年にパリで、翌1823年ロンドンでジオラマ館(人工的な照明の操作で景観が変化する大掛りな風景画の見せ物)を開業する。ジオラマに用いる風景画をカメラ・オブスキュラで描いていたが、その画像を手書きではなく化学的に定着することを思い立ち研究に着手(1824)。1829年、やはり光学像の定着を研究していたニエプスと提携し、ニエプスが創意したヘリオグラフィーを改良、彼の死後、銀めっき銅板に沃化(ようか)銀を作用させ露光を与え、それを水銀蒸気で現像し食塩水で定着する、いわゆる銀板写真術を1837年に完成、自らの名を冠してダゲレオタイプと命名した。だが商品化の資力がなく、1839年、科学者にして政治家のアラゴを介し、年金と引き換えに学士院でその技術内容を公開した。これが実用的な写真術の始まりである。
[平木 収]
写真の発明者。フランスのコルメイユに生まれ,風景画家として名声を博した。生来発明精神旺盛で絵画を色光で照明するジオラマを考案し,1822年パリに興行館を開設して大成功を収めた。一方,ジオラマの絵を描くのに使うカメラ・オブスキュラの焦点ガラスに写る像を感光物質でとらえて記録することを研究し,ついに銀板写真(ダゲレオタイプ)を完成して,39年1月,研究成果をフランス議会に報告した。この写真の発明は同年8月D.F.J.アラゴーによってフランス学士院におけるアカデミー・デ・シアンスとアカデミー・デ・ボザールの合同会議の席上で公表された。銀板写真は銀板上にヨウ化銀を作ってこれをカメラに収めて撮影し,次いで現像,定着して画像を仕上げるもので,今日の銀塩写真の基本過程を確立した点で重要である。ダゲールはこの発明によってレジョン・ドヌール勲章と多額の年金を受け,マルヌ河畔に広大な土地を得て余生を送った。
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執筆者:友田 冝忠
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…これが世界最初の写真といわれ,ここにおいてカメラ・オブスキュラはカメラ(写真機)としての第一歩を踏み出し,以後の発展は感光材料の進歩と密接な関連をもっている。L.J.M.ダゲールがいわゆる銀板写真(ダゲレオタイプ)に成功したのが39年であり,露出時間は30分と大幅に短縮され,D.F.J.アラゴーが宣伝に努めたこともあって人気を博した。ただし彼の用いたレンズはF15~17と暗く,焦点距離は38cmであった(FはF数)。…
…その開発には当時の化学者や発明家がさまざまな動機のもとに取り組んでいた。銀板写真(ダゲレオタイプ)の発明者L.J.M.ダゲールは,もともと画家でありオペラの背景等のディオラマの作家でもあった。彼の絵はこの時代にふさわしく,きわめて客観的・自然主義的な作風であり,またディオラマも当然のことながら現実再現的な味わいの濃い巧みなもので,どちらも高い社会的な評価を得ていた。…
…19世紀初頭の劇場は,いずれもこぞって幻想的な大がかりな装置を飾り,背景画家や道具方は俳優同様重要な存在になっていく。ピクセレクールの代表作《バビロンの廃墟》のティグリス川を背景にした巨大な王宮のセットは,ジャン・ピエール・アローJean‐Pierre Alauxの作で評判となったし,あるいはベスビアス火山の爆発を表現したJ.ダゲール(のちの写真のダゲレオタイプの発明者)などの装置家による視覚的要素での貢献は,地方色・時代色を尊重するのちのロマン派演劇の傾向をも促進したのであった。 今日では,メロドラマのさし示す意味合いはさらに変容し,一般に波乱に富む男女の通俗的恋愛劇をさすようになっている。…
※「ダゲール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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