入間村(読み)いりまむら

日本歴史地名大系 「入間村」の解説

入間村
いりまむら

[現在地名]西川町入間

寒河江さがえ川中流右岸にあり、集落は河岸段丘上の入間と、大入間おおいりま川中流の枝郷小山こやまとがある。村域の大きい村で、西は大井沢おおいさわ村、南は七軒しちけん地区(現大江町)、東はかば山の尾根沼山ぬまやま村に接する。まつ木平きだいら遺跡から旧石器および縄文時代の遺物出土地名は大江氏の従者右衛門尉基春の郷里武蔵国入間いるま(現埼玉県)にちなむという。大永五年(一五二五)一〇月二日の大江孝広寄進状(澄江寺文書)によれば、寒河江澄江ちようこう寺の庵室茶湯料として、入間のうち五〇〇束刈を寄進しているが、この文書は研究の余地がある。天正一二年(一五八四)大江高基が貫見ぬくみ(現大江町)御館おたて山で自害したとき、殉死した入間右衛門介は入間館主といわれる。慶長八年(一六〇三)最上家親はその子孫入間清九郎に、大江家に殉じたことへの世論を考慮して、知行三〇〇刈の安堵状を与えた(「最上家親安堵状」入間文書)


入間村
いりまむら

[現在地名]調布市入間町一―三丁目・若葉町わかばちよう一―三丁目・東つつじヶ丘ひがしつつじがおか一―三丁目・西つつじヶ丘にしつつじがおか四丁目

下仙川しもせんがわ村の南、南東流する川左岸にあり、東は喜多見きたみ(現世田谷区)、南は小足立こあだち(現狛江市)。北側を甲州道中が通り、村内を北から南へ入間川が流れる。東側には国分寺崖線があり、北東側は小高い丘陵、南西側は平坦で、村の中央に水田がある。そのため村内にはおお坂や七曲なのまがりとよばれていた屈曲が多い急坂がある。深大じんだい寺の僧長弁の「私案抄」に応永一八年(一四一一)二月、道久入間上野(入間上野入道道久であろう)が逆修作善のため布田ふだ郷に卒都婆三基を造立したときの意趣書がある。この入間氏はこの地を本拠とする在地武士に違いない。また昭和四三年(一九六八)頃、入間川の甲州街道滝坂たきざか橋の改修工事に伴い、文明三年(一四七一)銘の上欠阿弥陀図像板碑(調布市郷土博物館蔵)が出土した。


入間村
いるまむら

[現在地名]掛合町入間

北流する入間川流域に位置し、南東流する寺谷てらだに川と合流する貝崎かいざき付近に宮崎みやざき集落が形成され、両川の合流点より下流は三刀屋みとや川となる。北は掛合村、南は都加賀つがか(現頓原町)、東は竹尾たけのお村。枝郷として宮崎集落の北西に寺谷てらだに、北に出来山できやまがある。鰐淵がくえん寺旧蔵の大般若経奥書に、応安五年(一三七二)から永和二年(一三七六)にかけて沙門恵運が「雲州須佐郷由留間村妙厳庵」において書写したとあるが、由留間村は当地のことと考えられる。中世の山城が三ヵ所あり、じょうやまとよばれる付近に上弓場うえゆんば下弓場しもゆんばの地名が残る。出来山にある城山の城主は江角三郎左衛門といわれる(文化九年「書上」田部家文書)


入間村
いるまむら

[現在地名]南伊豆町入間・中木なかぎ

長津呂ながつろ村の北西に位置し、西は駿河湾に面する。北条氏所領役帳には本光院殿(北条為昌)衆の仙波藤四郎の所領役高として四六貫文「指田」とみえ、指田さしだは通称地名差田さしだに比定される。慶長三年(一五九八)と推定される検地帳には「入間指田中木村」とあり(増訂豆州志稿)、指田・中木は入間村の枝村とみられる。江戸時代の初めは幕府領、宝永五年(一七〇八)相模小田原藩領、延享四年(一七四七)幕府領、文化八年(一八一一)旗本有馬領となり幕末に至る(韮山町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の入間村の言及

【狭山[市]】より

…埼玉県南部の市。北西流する入間(いるま)川をはさんで武蔵野台地と入間台地にまたがる。人口16万2240(1995)。1954年入間川町と入間,堀兼,奥富,柏原,水富の5村が合体,市制。中心の入間川は鎌倉街道が入間川を渡る地点の集落として起こり,江戸時代は2・7の六斎市が立った。逃水((にげみず))という地名や堀兼井,七曲井の遺構などに,水の乏しい武蔵野台地の特性がよく表れている。1895年に,川越鉄道(現,西武新宿線)が開通した。…

※「入間村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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