日本歴史地名大系 「八並村」の解説 八並村やつなみむら 福岡県:宗像郡福間町八並村[現在地名]福間町八並など許斐(このみ)山(二七一メートル)の頂上を大穂(おおほ)村(現宗像市)との境にして西側に位置する。西は久末(ひさすえ)村。当村に水源を発し、ほぼ北流して村山田(むらやまだ)村へ下る八並川の両岸に耕作地が広がる。北部に枝村の山中(やまなか)村がある(続風土記)。建久五年(一一九四)五月二日、色定法師が書写した一筆一切経(宗像市興聖寺蔵)のうち央掘魔羅経奥書には「宗形御領別処吉原寺」などとみえる。また五月一五日に書写した文珠師利問経奥書(同寺蔵)には「吉原寺于観音堂仏前書之」とある。 八並村やつなみむら 佐賀県:武雄市八並村[現在地名]武雄市武雄町富岡(とみおか)字八並富岡村の北にあり、諏訪(すわ)丘陵の周囲を村域とする。正保絵図に村名がみえる。塚崎(つかざき)城主後藤氏の正史といわれる「藤山考略」によれば後藤氏六代常明の弟共明が八並村を与えられて分家したとみえる。鎌倉時代の前期である。共明は分家すると諏訪丘陵に砦館を築いて居館し、八並後藤氏を称した。弘安四年(一二八一)元軍来襲の時、八並後藤氏三代の信明が白馬に乗って出陣したため敵の目標となり、一斉攻撃を受け戦死した。 八並村やつなみむら 福岡県:築上郡新吉富村八並村[現在地名]新吉富村八ッ並吉岡(よしおか)村の南に位置し、村内を黒(くろ)川が北流する。八ッ並とも記される(旧高旧領取調帳)。江戸時代の領主の変遷は垂水(たるみ)村に同じ。元和八年人畜改帳では御姫様分と給人分で、家数三〇・人数四五(うち百姓五・名子二)、牛八・馬三。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by