富岡村(読み)とみおかむら

日本歴史地名大系 「富岡村」の解説

富岡村
とみおかむら

[現在地名]富岡市富岡

北境を高田たかた川、南境をかぶら川が蛇行しつつ東流し、東は曾木そぎ村、西は七日市なのかいち村と接する。村央を下仁田しもにた道が東西に抜け、鏑川の高瀬たかせ村との間に神田かみだ渡、内匠たくみ村との間に神等かみら渡、小幡おばた道に酢瀬すのせ渡があった。史料的には富岡町と記されることが多く、鏑川流域の産業経済の中心であった。慶長一七年(一六一二)瀬下せじも郷の西に連なる地に宮崎みやざき村の住民を移住させて成立した。瀬下は「和名抄」湍下せのしも郷に比定され、字芝宮しばみや・字西芝宮・字馬見塚まみづか・字大国塚だいこくづかに古墳群がある。嘉慶二年(一三八八)二月二七日の二階堂氏興譲状(写、相州文書)で孫の寿御前に一期分として譲られた分に「瀬下郷内瀬下殿寄田後閑郷藍付皮得分足」がある。文明一八年(一四八六)八月、聖護院道興が歩いた名所の一つに「せしもの原」がみえる(廻国雑記)。延享三年(一七四六)の御公用覚書(佐藤文書)によると慶長一七年二月、代官中野七蔵によって新たに町割された上町・中町・下町(瀬下郷)の三町に九斎市の市立て、砥沢とざわ(現甘楽郡南牧村)の砥石輸送の特権、秋畑あきはた(現同郡甘楽町)の秣場の許可などの条件で宮崎村民が移住、瀬下郷の住民を母胎に三町で富岡町が成立。同村の諏訪神社を遷宮して上・中両町の鎮守とし、祭礼を中心に市を開き市神とした。同時に龍光りゆうこう寺などの寺も移し、七日市陣屋に向かう道路の曲点要所に社寺を配置している。

慶長一七年四月の瀬下郷検地帳(富岡市役所蔵)によると田三六町一反余・畑一〇三町七反七畝余・屋敷七八筆五町五反四畝余、除地分に大明神領・福寿院屋敷・善明院屋敷・法泉院屋敷がある。元和三年(一六一七)富岡新田検地帳(同所蔵)では田一反一畝余・畑二三町九反五畝余・屋敷一七町一反余・除地一町八反九歩。除地は龍光寺・延命えんめい院のみ、屋敷地は上町・中町・よこ町・下町の名が明記され、面積も慶長検地の三倍となっていて五年間に新しい地割が行われたらしい。屋敷は上町五四軒、中町四〇軒、横町一六軒、下町四七軒、計一五七軒であった。寛永四年(一六二七)の検地帳(同所蔵)では三四字、畑四三町七反一畝余・屋敷一二町一反余、除地は龍光寺・延命院のほか本城ほんじよう寺・光明こうみよう院・満願まんがん寺・海源かいげん寺・福寿ふくじゆ院、雷電らいでん神社が加わり、問屋屋敷が上・中町各一軒、下町二軒、砥蔵屋敷が新しくみえる。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]郡山市三穂田町富岡みほたまちとみおか

鍋山なべやま村の西、笹原ささはら川両岸の台地(富岡台地)と奥羽山脈東麓山地に立地。宇奈己呂和気神の最初の降臨地と伝承する高旗たかはた(九六八・一メートル)がある。縄文時代の竹柄沢たけがらざわ山寺堰之上やまでらせきのうえ薬師やくし台東だいひがしの各遺跡、弥生時代の腰巻こしまき遺跡、奈良―平安時代の住居跡と土師器・須恵器などが出土した台東・助市田すけいちた下河原しもがわら笠田かさだの各遺跡がある。字阿弥陀あみだに文永二年(一二六五)八月銘の浮彫阿弥陀三尊来迎供養塔と正安四年(一三〇二)三月銘の胎蔵界大日如来種子供養塔があり、字くじらに応安四年(一三七一)銘の釈迦如来種子供養塔がある。永享一一年(一四三九)頃と推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に南郷のうちとして「上大島 四丁」とみえ、上大島かみおおしまは地内に比定されている。天文一〇年(一五四一)五月二〇日の田村義顕・隆顕連署証文(伊達家文書)に当地の領主とみられる「富岡八郎」がみえる。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]金沢区昭和しようわ町・富岡町・富岡東一―六丁目・堀口ほりぐち長浜ながはま

東は海に臨み、三方を山に囲まれる。北は小字青砥おおと杉田すぎた(現磯子区)、西は中里なかざと村・氷取沢ひとりざわ(現磯子区)、南はしば村・谷津やつ村に接する。「風土記稿」には、海岸は波が荒くややもすれば岸を打崩し、満潮時には往来できないと記す。

嘉元三年(一三〇五)四月二八日の瀬戸橋造営棟別銭注文案(県史二)に「一貫七百文 富岡分」とみえ、正中二年(一三二五)七月二八日、安達泰盛の孫貞泰が施入した慶珊けいさん寺蔵の大般若経奥書(同書)に「所奉施入六浦庄内富岡郷八幡宮也」とみえる。また永正一三年(一五一六)六月一三日の能永のうえい(現横須賀市)に宛てた相河半吾証文(県史三)には「とミをか」「留岡」と記されるが同証文は検討の余地があるとされる。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]佐野市富岡町・栄町さかえちよう

犬臥いぬぶし町の南にあり、西は小屋こや町。西部に分離丘陵の観音かんのん山がある。元和五年(一六一九)の年貢割付状(関根一郎文書)では田四町三反余、畑・屋敷一一二町余。年未詳の開記并品々書付(同文書)によれば、元和四年の本多正純による検地では高七四四石余とみえ、当時の検地帳が関根家に残る。同八年正純の改易によって幕府領となり、寛永三年(一六二六)に旗本酒井・稲葉の二給、同一〇年に稲葉分が下総古河藩領となる(前掲書付)。慶安郷帳では朽木稙綱領と古河藩の二給で、田三四石余・畑七一〇石余。延宝七年(一六七九)には上野館林藩と古河藩の二給(「観音山出入返答書」関根一郎文書)


富岡村
とみおかむら

[現在地名]鹿沼市富岡

くろ川の支流、なめ川の下流左岸に位置。東は武子たけし村、南は玉田たまだ村、西は見野みの村、北は南小倉みなみこぐら(現今市市)、南部で行川が黒川に合流する。日光山往古社領六十六郷の一つに富岡郷がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。応永二六年(一四一九)と推定される五月一三日の某書状(輪王寺文書)に「富岡郷」の名がみえ、苻所ふどころ郷が日光山常行じようぎよう堂に納めるべき供米が水損のため不足したので、この年より富岡郷の年貢のうちから納めることとしたことが記されている。同年のものと推定される五月一九日の沙弥道慶書状(同文書)に「富岡郷以御年貢之内、二結可進之候」とみえ、一三日の書状をうけ、富岡郷の年貢のうちから二結(二貫文)進納する旨見衆に申送っている。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]箕郷町富岡

善地ぜんじ村の東南にあり、東はしら川を境に上柴かみしば村、南は和田山わだやま村、北は金敷平かなしきだいら村。おもな平地は白川沿いのみで、大部分は緩やかな起伏のある丘陵地。地名はもと留岡とめおかであったといい、榛名はるな山の裾野が当地で留まっていることから地名が生じた。集落は本村ほんそん原山はらやま蟹沢かにさわよりなり、本村から原山・善地村、南は和田山村に道が通じ、西は巡礼道で白岩しらいわ(現榛名町)に通ずる。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]中条町富岡

日本海沿いの砂丘内陸東側にあり、南東を乙大日きのとだいにち(旧胎内川)が大きく湾曲して北へ流れる。北東は大出おおいで村、南は高畑たかばたけ村に接する。正保国絵図に高一一〇石余とある。村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、同七年村上藩領に復した。享保三年(一七一八)幕府領に編入された。万治二年(一六五九)の検地帳(井上保氏蔵)によれば高六六石三斗余・田一〇町一反余・畑九町八反余・新田五反五畝余・新畑一町五反余・屋敷一反六畝余。屋敷名請人四名。畑地のうち約七割は源兵衛の名請である。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]青梅市富岡

今井いまい村の北西に位置し、黒沢くろさわ川が流れる。永禄七年(一五六四)とされる五月二三日の北条氏照朱印状(和田文書)三田みた谷の侍としてみえる久下兵庫助・久下小三郎らは当地を拠点とする者と考えられる。地内の曹洞宗常秀じようしゆう院の旧地は私市氏の一族久下左衛門常秀の居館跡と伝え、元和二年(一六一六)常秀の菩提を弔うために建立されたという。田園簿に村名がみえ、田二六石余・畑一三四石余で幕府領。寛文八年(一六六八)の多麻郡三田領富岡村検地帳(富岡家文書)では上畑一町九反余・中畑四町余・下畑五町二反余・下々畑一町三反余・切畑七反余、上田三反余・中田八反余・下田七反余・下々田九反余。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]笠岡市富岡

笠岡村の東にあり、北は絵師えし村、東は南流する今立いまだて川を隔てて浜中はまなか(現浅口郡里庄町)。当地の高橋家に伝わる干拓関係記録(笠岡地方干拓史)によると、延宝二年(一六七四)備後福山藩の普請奉行上田玄蕃を開発者に、絵師・笠岡・浜中三村地先の干潟を干拓して成立した新田村で、同五年鎮守として七面しちめん明神(現徳民於賀神社)を祀った。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]大山町富岡

安原やすはら村の東にあり、孝霊こうれい山北麓に位置する。北を妻木むき川が西流する。初め清六せいろく村と称し(正保国絵図など)、文化一四年(一八一七)富岡村への村名変更願を藩から許され(在方御定)、天保五年(一八三四)幕府に届出された(藩史)。拝領高は一九〇石余、本免は三ツ三分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二一〇石、竈数八、天保九年の御巡見様御通行万端袖控(橋井家文書)の家数一六。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二〇六石、竈数一一。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]緑区富岡町

大金沢おおかんざ村の西にあり、椎名上しいなかみ郷に属した。寛永四年(一六二七)から生実藩領で、同五年の小弓領郷帳に村名がみえ、田一八八石余・畑二二石余。幕末まで同藩領。文化四年(一八〇七)年貢は一八六俵余であったが、同一四年田方一五俵・畑方二俵余の減免となっている(鈴木家文書)。天保九年(一八三八)村明細帳(鴇田家文書)によれば田一三町五反余・畑三町一反余、家数一八・人数九三。文久二年(一八六二)当時は本百姓三・水呑一五で、人数九五、女馬七。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]大山田村富岡

出後いずご村の西方に位置し、西南の一部が山田郡蓮池はすいけ(現上野市)に連なる。文化五年(一八〇八)の検地帳(富岡区有文書)では、本田畑屋敷とも四町八反余、新田畑屋敷とも二町四反余という当郡で最も面積の小さい村。伊賀街道は当村の北方約五〇〇メートルの服部はつとり川の北側を通る。元禄九年(一六九六)内検を改めている。本高一一二・九二六石、平高一一六・一五石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数二五、人口一一七、馬九。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]大宮町富岡

久慈川の東岸にあり、北は小倉おぐら村。「新編常陸国誌」によると古くはかし村・加志村と称したが、寛延二年(一七四九)に富岡村と改めた。元亨三年(一三二三)九月二三日付の関東下知状写(水府志料所収文書)に「久慈東郡加志村」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「樫村」と記され、同二一年の御知行割郷帳には「かし村」とあり、天保郷帳に「富岡村」とある。

寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)の真言宗の部に宝蔵ほうぞう院がみえ、大永三年(一五二三)の建立とある。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]会津高田町富川とみかわ

みや川扇状地扇央にあり、西から東へ緩やかに低くなる。西は上中川かみなかがわ村。本村の東四〇間余に端村の新屋敷あらやしきがある。村内を下野街道が通る。「塔寺八幡宮長帳」応永二一年(一四一四)一一月三日条によれば、遷宮の儀式に参加した人々のうちに「富岡侍従阿闍梨御房」がいた。同三三年の鰐口銘に「大沼郡富岡村妙福寺」とあったというが、寛政九年(一七九七)改鋳された(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三一二石余。寛文五年(一六六五)の「高田組郷村万改帳」では本田高三一三石余・新田高八石余、免八ツ二分八厘余、本村家数三九、竈四九、男一二二・女一〇〇、馬二〇、新屋敷の家数一八、竈二二、男四五・女三三、馬四(うち五調二)


富岡村
とみおかむら

[現在地名]犬山市富岡

北は継鹿尾つがお村、西は犬山村、南と東は塔之地とうのじ村に接する。東西に流れる善師野ぜんじの(郷瀬川)に沿って田畑・居屋敷がある(天保村絵図)。高六七七石余のうち三五九石余は成瀬隼人正采地。田三一町四反四畝余・畑五町八反三畝余。寛文一一年(一六七一)の戸数三一、人数二六一(寛文覚書)。「徇行記」は「細民ハカリニテ貧村ナリ(中略)高ニ準シテハ戸口多ク佃力足レリ」と記す。上野かみの村の橋架けの時には手伝い人足を出し、善師野宿へは助郷人馬を出し、将軍上洛・朝鮮使節通行の時にも人馬を提供した。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]武雄市武雄町富岡

武雄市の中央部に位置し、北に丸山まるやま丘陵があり、南は水田地帯で条里制の遺構が多い。

嘉禄三年(一二二七)四月二二日の藤原政明寄進状(武雄神社文書)に「富岡村永松内木園参段事」とある。

一三、四世紀に成立した塚崎つかざき庄に属したが、平安時代後期から鎌倉時代までは長島ながしま庄に属した。塚崎城主四代後藤宗明は三男信明を分家とし富岡村を与えた。信明は丸山丘陵(天神山)に館を築いて砦とし、塚崎城の東の守りを受け持った。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]長岡市上富岡かみとみおか町・下山しもやま二―三丁目・長峰ながみね

才津さいづ村の南。西山丘陵東麓、信州道沿いに集落がある。才津村の枝郷。当初は下山しもやま村の南方に接し、才津村の東方にあって才津村に属したが、承応年間(一六五二―五五)に分れて多兵衛組たへえぐみとなり、寛文年間(一六六一―七三)に信濃川の氾濫のため現在地に転じて富岡村と改称。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]八日市場市富岡

中台なかだい村の西に位置する。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に村名がみえるが、村高は松山村に含まれ、旗本中根領。天保郷帳で一村として高付され高三三九石余、「松山村之内」と注記される。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では家数三二、中根領。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]森田村上相野かみあいの

南は広富ひろとみ村、西は下相野しもあいの村へ続く。

天和三年(一六八三)広須御新田所図に村名がみえ、享保一二年(一七二七)には木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二〇町二畝一九歩、村高は一一五・五六石であった。うち田方は一八町九反八畝二三歩で一一一・五七五石、上田から下々田まで設定され、下々田が一二町九反五畝七歩、六四・七六一石とあり、畑方は上畑がなく中・下・下々畑で、屋敷地を含め合計一町三畝二六歩、三・九八五石とある。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]岩瀬町富岡

岩瀬盆地北西部にあり、東・南は鍬田くわだ村、西は小幡おばた村。村の西をいずみ川が南流する。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には溜池三、堰一、土橋一がある。また屋敷付の四壁山が各戸ごとにあり、用竹五本ずつ上納している。文化期(一八〇四―一八)の戸数一二(大工一、紺屋一)・人数五四、馬三。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]棚倉町富岡

八溝やみぞ山地北端部、久慈くじ川上流域丘陵に立地。貞和二年(一三四六)頃と考えられる新恩所領注文(白河証古文書)に、高野たかの郡北方のうち「富岡」とみえ、当地を含む八ヵ村は中先代の乱の闕所地として伊達氏が得ていたが、改めて結城親朝領とされた。江戸時代の領主の変遷は伊野上いのかみ村と同じ。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]和島村下富岡しもとみおか

小島谷おじまや村の東の丘陵にある。正保国絵図には「留岡村」高四一五石余で幕府領。元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録の貼紙によると寛永七年(一六三〇)に幕府領と替地となったと記す。寛文四年(一六六四)には与板藩牧野氏領となり、以後幕末まで続く。明和八年(一七七一)の与板領一部の持馬調査の覚(「関守」与板町郷土資料館蔵)では八匹を数える。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]玉城町富岡

宮川下流左岸、外城田ときだ川と汁谷しるたに川に挟まれた湯田野ゆたの洪積台地のほぼ中央にある。近世は和歌山藩田丸領。天保郷帳によれば、富岡村は上地うえじ(現伊勢市)の枝郷である。「五鈴遺響」の上地村の項に「富岡新田アリ」と記される。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]岩室村富岡

飛落とびち川右岸にあり、北は桜林さくらばやし(現巻町)、北西は高橋たかはし村。承応―明暦(一六五二―五八)頃開発され、元禄郷帳上和納かみわのう村枝郷として富岡新村とみえる。高六五石五斗余。天保郷帳では一九三石七斗余と高が増加している。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]高松市春日町かすがちよう

春日村の北に位置し、春日川としん川の河口部に広がる干拓地に立地する。当地一帯は入海であったが、寛永一四年(一六三七)の干潟の干拓により新田が開かれて成立。同一七年の生駒領高覚帳には富岡新田とみえ高三六七石余。海に面していたが、慶安元年(一六四八)当地北の入海が春日村新開として拡張されて内陸部になった。


富岡村
とみおかむら

[現在地名]上越市富岡

藤野ふじの新田の南に位置し、村内を大道だいどう用水が通る。天正一五年(一五八七)と推定される四月二八日の本願寺顕如印判状(本覚坊文書)に「トミヲカ村」とみえ、当地に真宗門徒の講があったことが知られる。正保国絵図には留岡村とみえ高二〇九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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