八代城跡(読み)やつしろじようあと

日本歴史地名大系 「八代城跡」の解説

八代城跡
やつしろじようあと

[現在地名]八代市松江城町

白鷺しらさぎ城・松江まつえ城ともいう。球磨川支流まえ川の北側河口に立地する。八代城は中世には現城地の東、古麓ふるふもとにあり、名和相良氏が居城したが、天正一〇年(一五八二)島津氏の肥後侵攻によって島津氏の支配するところとなった。同一五年豊臣秀吉の九州統一により、肥後国は佐々成政に与えられたが、翌一六年八代郡は小西行長領となった。行長は城地を古麓から麦島むぎしまに移し、八代城または麦島城とよばれた。「国志草稿」に「麦嶋城跡 此所ハ元海辺なりしを、塘堤を築て田畠と成し、麦を多作れるとて、所名とすと云り」とある。また同書に「同年閏五月、小西行長領知の時、再城を築き、其臣小西美作をして守らしむ、前に徳淵と云海辺、後に球摩川と云大河有、慶長五年加藤清正領知と成、家人吉村左近・蜂須賀与兵衛・野尻久左衛門等の族在番として、定りたる城代なし、同忠広の時には、其臣加藤右馬允城代たり、卒去の後、其子清兵衛正方城代たり、後に右馬丞と改ム、元和五年三月七日の地震に城楼悉く崩壊す、同年忠広、台命を受て城を徳淵に移替、加藤右馬丞城代たり」とみえ、同書の徳淵とくぶち城の項に「当城ハ元和六年の秋、国守加藤忠広官命を得て、此辺麦嶋の城を引て此所に移す、松江城又徳淵城共云り、此内に徳淵と云ル大海の入江有、諸邦の商船輻湊の津也」とある。薩摩の「旧記雑録」所収の文禄元年(一五九二)の紀行文に「此浦(日奈久)をも立出てとも道わろき遠行てアリけれは、かふ田といへる所をも跡を見て、やかて川を渡は、むきの嶋といゝて八代の城ありける、其町を御とをり被成候ヘハ、男女手をあハせてをかミ候て涙を落、はるはる跡をシタイ来りぬ、其人々々の数をしらす」とあり、この時期にはすでに麦島城があった。

八代城跡
やつしろじようあと

[現在地名]国富町八代南俣

園田そのだにある中世の山城跡。建武二年(一三三五)一二月八代城に拠る伊東祐広らは南朝方に応じて兵を挙げ、足利方の穆佐むかさ(現高岡町)を攻め落したという(「伴兼重伝」旧記雑録、「日向記」)。しかし翌三年一月二三日、土持宣栄軍勢は祐広のいた八代の宿所を攻撃、二九日当城の北西一里ほどの所にある祐広の居城猪野見いのみ城の大手で合戦となった(同年二月七日「土持宣栄軍忠状」旧記雑録)。同五年四月、北朝方の日向国大将畠山直顕が日下部盛連らとともに軍勢を率いて当城を攻撃、五月九日祐広は降参している(同年五月一五日「日下部盛連軍忠状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報