朝日日本歴史人物事典 「加藤忠広」の解説
加藤忠広
生年:慶長6(1601)
江戸前期の大名。熊本藩主。加藤清正の3男(長男,次男は早世)。幼名虎之助,のち肥後守を称す。慶長16(1611)年に清正が急死したために,11歳の幼少で肥後国熊本藩54万石を継いだ。同19,20年の大坂の陣では加藤が豊臣恩顧の大名であることから国元に止めおかれた。しかし大坂方に心を寄せる者などもあって加藤家内部に亀裂が生じ,これが家中の派閥抗争に発展して,元和4(1618)年には幕府の裁定を受ける事態となった。この事件では老臣たちが処分を受けたが,忠広は年少のゆえをもって許された。寛永9(1632)年6月,忠広は幕府から改易の宣告を受けて出羽庄内に流され,嫡子光広も飛騨国へ配流となった。これは将軍徳川家光の日光社参のおりに,老中土井利勝を首謀者として家光暗殺を企てる旨の密書を,光広が発したとされることに基づくものである。この事件は,幕府が外様大名取り潰しの謀略に出たものであると信じられてきたが,近年の研究では光広の密書の実在性が肯定的に受け止められるに至っている。<参考文献>笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報