加藤忠広(読み)かとう・ただひろ

朝日日本歴史人物事典 「加藤忠広」の解説

加藤忠広

没年承応2.閏6.8(1653.8.1)
生年:慶長6(1601)
江戸前期の大名。熊本藩主。加藤清正の3男(長男,次男は早世)。幼名虎之助,のち肥後守を称す。慶長16(1611)年に清正が急死したために,11歳の幼少で肥後国熊本藩54万石を継いだ。同19,20年の大坂の陣では加藤が豊臣恩顧の大名であることから国元に止めおかれた。しかし大坂方に心を寄せる者などもあって加藤家内部に亀裂が生じ,これが家中の派閥抗争に発展して,元和4(1618)年には幕府裁定を受ける事態となった。この事件では老臣たちが処分を受けたが,忠広は年少のゆえをもって許された。寛永9(1632)年6月,忠広は幕府から改易の宣告を受けて出羽庄内に流され,嫡子光広も飛騨国へ配流となった。これは将軍徳川家光の日光社参のおりに,老中土井利勝を首謀者として家光暗殺を企てる旨の密書を,光広が発したとされることに基づくものである。この事件は,幕府が外様大名取り潰しの謀略に出たものであると信じられてきたが,近年の研究では光広の密書の実在性が肯定的に受け止められるに至っている。<参考文献>笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』

(笠谷和比古)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「加藤忠広」の意味・わかりやすい解説

加藤忠広 (かとうただひろ)
生没年:1601-53(慶長6-承応2)

江戸初期の大名。幼名虎之助,虎藤。肥後藩主加藤清正の三男。1611年清正の死により,10歳で遺領相続。幼少のため幕府目付衆の監督をうける。将軍徳川秀忠養女夫人とし,妹あまは家康の10子頼宣に嫁し,徳川氏と結ばれる。元和年間お家騒動で家臣が二分して争ったがとがめなし。32年(寛永9)家光の御代始めに,謀反嫌疑をうけ所領没収,出羽庄内に配流された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加藤忠広」の意味・わかりやすい解説

加藤忠広
かとうただひろ

[生]慶長6(1601)
[没]承応2(1653).閏6.
江戸時代前期の肥後熊本藩主。 52万石。清正の子。父の死により 11歳で家を継ぐ。寛永9 (1632) 年参勤のため出府した忠広は江戸入府をとどめられた。さらに 52万石を没収され,子光広も飛騨に流され,家は滅んだ。この改易の原因は,日頃の身の行いが悪いためとも,土井利勝が仕組んだ策略ともいわれるが,豊臣氏と縁故の深い加藤氏を除いたというのが真相らしい。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤忠広」の解説

加藤忠広 かとう-ただひろ

1601-1653 江戸時代前期の大名。
慶長6年生まれ。加藤清正の3男。慶長16年肥後熊本藩主加藤家2代となる。元和(げんな)4年家臣間の争いで徳川秀忠の直裁をうけたが,若年を理由にゆるされた。寛永9年所領没収のうえ,出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)藩主酒井忠勝にあずけられた。承応(じょうおう)2年閏(うるう)6月8日死去。53歳。通称は虎藤。

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世界大百科事典(旧版)内の加藤忠広の言及

【加藤氏】より

…(1)伊勢国の中世武家。藤原利仁流の末裔景貞(清)が伊勢に下向,祖となったという。津市,鈴鹿市に景貞伝承の地がある。その子景員,孫景廉・光員は源頼朝挙兵に参加,その後,光員は頼朝側近として,また1185年(文治1)平家家人上総介忠清を志摩国で捕縛,没官領の注進など当国統治にも活躍,朝明郡豊田荘など数ヵ所の地頭職を得,左衛門尉,伊勢守に任官している。1206年(建永1)当時,彼は西面の武士として後鳥羽院と,道前(みちのさき)政所職(神宮領朝明郡,員弁郡,三重郡)として大神宮と関係するなど複雑な関係を持った人物であった。…

【熊本藩】より

…肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)佐々成政が隈本城に封ぜられたのが起りで,領域は球磨郡を除く肥後国12郡であった。成政は翌年起こった肥後一揆の責を負って尼崎で切腹,肥後国は豊臣秀吉子飼の加藤清正(北半国19万石)と小西行長(南半国14万石)に分与された。この間秀吉の上使衆によって球磨郡を除く肥後国検地がなされ,肥後54万石の表高が確立した。ついで1600年(慶長5)清正は関ヶ原の戦で西軍に属した小西行長の旧領を合わせ,さらに同年天草郡と豊後国直入,大分,南海部3郡内との替地を許され,ここに肥後国の大半と豊後3郡にまたがる熊本藩領54万石が確定した。…

【肥後国】より

…旧国名。肥州。現在のほぼ熊本県に当たる。
【古代】
 西海道に属する大国(《延喜式》)。古くは火の国の一部。《日本書紀》持統10年(696)条に,〈肥後国〉とあるので,このころまでには火の国は,火(肥)の前(さき)の国と火(肥)の後(しり)の国に分国したと思われる。大化前代,肥後国の地方には,玉名郡の菊池川流域に日置氏,阿蘇地方に阿蘇君,宇土半島の基部より氷川流域を中心に火(肥)君,八代市南部の葦北君,熊本市の白川下流域に建部君などの豪族が蟠踞(ばんきよ)していたが,その最大の豪族は火君であった。…

※「加藤忠広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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