八王寺村(読み)はちおうじむら

日本歴史地名大系 「八王寺村」の解説

八王寺村
はちおうじむら

[現在地名]熊本市八王寺町・九品寺くほんじ六丁目・南熊本みなみくまもと三丁目

西は春竹はるたけ村・別所べつしよ村、北は九品寺村である。中世には八王寺庄とよばれた延暦寺領荘園があり、広大な神蔵かみくら庄の内に島のような形で存在した。鎌倉前期の内容を示すと思われる詫麻郡所領注文(詫摩文書)に「八王寺庄三十八丁」とあり、鎌倉時代初期には成立したと思われる(→八王寺庄。現高を記す慶長八年(一六〇三)検地帳では田一七町七反二畝余・分米二二二石七斗余、畑一七町四反・分米一二八石五斗余、居屋敷一町四反七畝余・分米一一石七斗余、家数四九、男五二(うち年寄四・倅九)・女四二(うち年寄四・娘四)、馬六・牛一〇である。


八王寺村
はちおうじむら

[現在地名]燕市八王寺

なかくち川が東を流れ、北は大曲おおまがり村、対岸上須頃かみすごろ(現三条市)。字たてわりに館跡があり、在地土豪層の居館跡と考えられる。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に「椎野彦七郎分 三条吉田村・くりはやし村八王子村共ニ」とある。また山吉掃部知行として「福田之関所」とあるのは当村内に比定される。村の開発は信州の士小泉善見らと伝える(小池村勢要覧)。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)の村高は一七四石二斗。同九年幕府領となり正保国絵図は二六六石余。


八王寺村
はちおうじむら

[現在地名]倉敷市八王子はちおうじ

日吉庄ひえのしよう村の西、東高梁ひがしたかはし川堤防の東側に位置し、鴨方かもがた往来が東北から南西に抜ける。慶長(一五九六―一六一五)末年、倉敷川を酒津さかづで締切り、東高梁川の左岸に築いた新堤と日吉庄村との間にできた新田の東半分が当村であると思われる。寛永備中国絵図では高一〇三石余、岡山藩領。正保郷帳には枝村として大内おおうち村を記すが、日吉庄村の枝村大内とは異なる新田分と思われる。宝永五年(一七〇八)から同藩生坂領となり(撮要録)幕末まで同領。享保六年(一七二一)の「備陽記」には、長谷川周防守領(日吉庄村)と「家田地悉ク入組也」とあり、家数一三・人数八四、畠畝七町八反余とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android