六全協(読み)ろくぜんきょう

改訂新版 世界大百科事典 「六全協」の意味・わかりやすい解説

六全協 (ろくぜんきょう)

1955年7月27~29日にひらかれた日本共産党第6回全国協議会の略称。1950年以来アメリカ占領軍の弾圧下で分裂を深めてきた日本共産党が,講和以後の新しい条件のもとで統一を回復し,公然活動に転換する画期となった。〈党活動の総括当面任務〉では,極左冒険主義克服セクト主義の反省にもとづく党の団結がうたわれ,民族解放,民主統一戦線のスローガンが打ち出された。〈党の統一にかんする決議〉では,1950年に発生した分裂・抗争の責任が当時の指導部にあることが明らかにされ,〈伊藤律の除名確認〉が決定された。しかしこの会議は,党内分裂状態のもとで進められ,平和的手段による革命の可能性を否定し,日本に植民地・従属国の革命路線を適用した〈51年綱領〉の影響下にあり,第7回大会にいたる過渡的な性格をもつものであった。また,この場で書記長徳田球一死去(1953年10月)が公表された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「六全協」の意味・わかりやすい解説

六全協
ろくぜんきょう

1955年7月に開かれた日本共産党第6回全国協議会の略称。共産党が,それまでの極左軍事冒険主義を転換し,今日の先進国型平和革命路線に踏出す,歴史的意味をもつ会議とされる。それまでの 51年綱領は事実上の軍事革命路線であり,52年以降の火炎瓶闘争はその実践であった。六全協では,この路線の推進者だった徳田球一志田重男の主流派と,この路線の批判者である宮本顕治の国際派が妥協。したがって路線批判はまだあいまいだったが,六全協直後に志田は失脚し,宮本が優位に立ち,翌 56年7月の第7回党大会で 51年綱領は廃棄され,宮本が書記長に就任,新路線の推進,確立に向けて歩みはじめた。

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