伊藤 律
イトウ リツ
昭和期の社会運動家 元・日本共産党政治局員。
- 生年
- 大正2(1913)年6月27日
- 没年
- 平成1(1989)年8月7日
- 出生地
- 広島県
- 出身地
- 岐阜県土岐郡市原(現・瑞浪市)
- 別名
- 幼名=恵一
- 学歴〔年〕
- 一高〔昭和7年〕中退
- 主な受賞名〔年〕
- 文芸春秋読者賞(第55回)〔平成5年〕「『日本のユダ』と呼ばれて」
- 経歴
- 一高在学中、共産青年同盟に入り放校処分。昭和8年3月日本共産党に入党、5月検挙。10年保釈となり全農書記局を経て、14年満鉄東京支社調査室嘱託となり、尾崎秀実に重用される。同年11月商大グループに関連して検挙され、15年6月拷問を受け自供、ゾルゲ事件の発端となった情報を特高にあたえたといわれる。17年12月一審判決があったが上告、18年11月再審判決で懲役3年未決通算260日となり、東京拘置所に服役。敗戦後20年8月26日に仮出獄。21年共産党に再入党し、中央委員、47年政治局員、23年書記局員となり徳田球一の下でナンバー2の実力者として共産党再建に従事。25年GHQ公職追放で地下に潜行し、火炎瓶闘争などを指導。この間死亡説、米国亡命説など諸説が流れたが、実際は26年秋中国に密航し、徳田らの北京機関に合流していた。ここで日本向けの地下放送・自由日本放送の指導に当たった。28年スパイ活動の疑いで共産党除名、一時北京で監禁状態に置かれた。30年以後消息不明となって死亡説が定着していたが、55年8月北京で生存確認、同年9月30年ぶりに帰国した。昭和史の裏面を知る生き証人として、ゾルゲ事件の真相や戦後の共産党の武闘路線などについての証言が期待されたが、沈黙を守った。平成5年中国での獄中生活やゾルゲ事件について書かれた遺稿が発見される。12年「生還者の証言 伊藤律書簡集」が刊行された。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
伊藤 律
イトウ リツ
- 肩書
- 元・日本共産党政治局員
- 別名
- 幼名=恵一
- 生年月日
- 大正2年6月27日
- 出生地
- 広島県
- 出身地
- 岐阜県土岐郡市原(現・瑞浪市)
- 学歴
- 一高〔昭和7年〕中退
- 経歴
- 一高在学中、共産青年同盟に入り放校処分。昭和8年3月日本共産党に入党、5月検挙。10年保釈となり全農書記局を経て、14年満鉄東京支社調査室嘱託となり、尾崎秀実に重用される。同年11月商大グループに関連して検挙され、15年6月拷問を受け自供、ゾルゲ事件の発端となった情報を特高にあたえたといわれる。17年12月一審判決があったが上告、18年11月再審判決で懲役3年未決通算260日となり、東京拘置所に服役。敗戦後20年8月26日に仮出獄。21年共産党に再入党し、中央委員、47年政治局員、23年書記局員となり徳田球一の下でナンバー2の実力者として共産党再建に従事。25年GHQ公職追放で地下に潜行し、火炎瓶闘争などを指導。この間死亡説、米国亡命説など諸説が流れたが、実際は26年秋中国に密航し、徳田らの北京機関に合流していた。ここで日本向けの地下放送・自由日本放送の指導に当たった。28年スパイ活動の疑いで共産党除名、一時北京で監禁状態に置かれた。30年以後消息不明となって死亡説が定着していたが、55年8月北京で生存確認、同年9月30年ぶりに帰国した。昭和史の裏面を知る生き証人として、ゾルゲ事件の真相や戦後の共産党の武闘路線などについての証言が期待されたが、沈黙を守った。平成5年中国での獄中生活やゾルゲ事件について書かれた遺稿が発見される。12年「生還者の証言 伊藤律書簡集」が刊行された。
- 受賞
- 文芸春秋読者賞(第55回)〔平成5年〕「『日本のユダ』と呼ばれて」
- 没年月日
- 平成1年8月7日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
伊藤律
いとうりつ
(1913―1989)
政治家。岐阜県土岐(とき)村(現瑞浪(みずなみ)市)に生まれる。1930年(昭和5)第一高等学校入学、1932年共産青年同盟に加盟し、翌年日本共産党入党、同年検挙され1年半で保釈となる。その後1939年満鉄東京支社に入社、尾崎秀実(ほつみ)の知遇を得る。同年再検挙され、党再建グループの運動につき供述、またゾルゲ事件発覚の糸口となる情報を特高に漏らした。敗戦直後の1945年8月出獄、まもなく再入党し、1946年(昭和21)には中央委員、政治局員となる。徳田球一に重用されての異例の抜擢(ばってき)であった。1950年、党幹部の公職追放後、地下活動に入り主流派を指導するが、1951年秋、中国へ密出国。その後中国内の「北京(ペキン)機関」で戦前・戦後の行為につき査問され、1953年に、スパイとして党から除名処分を受けた。以後消息不明となり現代史の謎(なぞ)とされたが、1980年8月中国当局に拘禁されていたことが明らかにされ、翌9月、29年ぶりに帰国した。
[荒川章二]
『川口信行・山本博著『伊藤律の証言』(1981・朝日新聞社)』▽『『戦後史における日本共産党――歴史の真実と伊藤律問題』(1981・日本共産党中央委員会出版局)』▽『伊藤律著『伊藤律回想録――北京幽閉二七年』(1993・文芸春秋)』▽『尾崎秀樹著『生きているユダ』(角川文庫)』
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伊藤律
いとうりつ
[生]1913.6.27. 岐阜
[没]1989.8.7. 東京,八王子
日本共産党指導者。 1930年第一高等学校に入学後,共産青年同盟に加入。 33年日本共産党に入党,治安維持法違反で検挙されたが,転向を表明して釈放される。 39年南満州鉄道株式会社に入社,尾崎秀実と交遊,同年共産党再建グループの一員として検挙される。翌年保釈になり満鉄調査部に復職する。 41年三たび検挙されるが,このとき,ゾルゲ事件摘発のための有力な情報を漏したとされる。第2次世界大戦後復党し,政治局員としてはなばなしく活躍したが,公職追放で地下活動に入り,51年中国に密航した。中国滞在中の 53年,スパイとして日本共産党から除名され,中国共産党に身柄を拘束された。 28年間の獄中生活間に,聴力・視力をほぼ失い,80年車椅子で帰国。現代史の生き証人といわれたが,何も語らずに逝った。
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伊藤律【いとうりつ】
元日本共産党指導者。岐阜県出身。1930年第一高等学校に入学するが,1932年日本共産党青年同盟に加入して放校。翌年同党に入党,警察の弾圧や内部分裂などで壊滅状態にあった党の再建活動に参加した。1939年南満州鉄道調査部嘱託となり,尾崎秀実(ほつみ)と交遊,同年党再建活動で検挙され,この時の取調べ供述が後のゾルゲ事件検挙の端緒となったといわれる。1946年中央委員・政治局員となり,1950年マッカーサーによる公職追放で地下に潜伏,翌年中国に密出国した。1953年スパイ容疑で党から除名,1980年中国での生存が確認され同年帰国。
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伊藤律 いとう-りつ
1913-1989 昭和時代の社会運動家。
大正2年6月27日生まれ。昭和7年一高在学中に共産青年同盟にはいり放校処分となる。8年共産党に入党,検挙。14年満鉄東京支社にはいり尾崎秀実(ほつみ)と交遊,再検挙されゾルゲ事件発覚にかかわる。20年出獄後,徳田球一のもとで同党政治局員となる。26年中国にわたる。28年党から除名処分,55年帰国。平成元年8月7日死去。76歳。岐阜県出身。
【格言など】いま生きて再び故国の土を踏むことができました。この喜びは,まことに無量なものがあります(29年ぶりに帰国して記者会見での挨拶)
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伊藤 律 (いとう りつ)
生年月日:1913年6月27日
昭和時代の社会運動家。日本共産党政治局員
1989年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報