社会運動家、政治家。明治27年9月12日沖縄県に生まれる。幼少時から沖縄人の一人として内地人の教員や官吏などによる差別を経験するとともに、生家が貧しかったことから、青少年期には彼が学資を頼る親戚(しんせき)の間で差別的な待遇を受けた。鹿児島の第七高等学校中退後、郷里での代用教員などの職を経て1917年(大正6)に上京、苦学して日本大学専門部法律科(夜間)に学び、1920年に弁護士資格を取得した。苦学中に米騒動に参加し、山川均(やまかわひとし)のもとに出入りするようになる。1921年モスクワの極東民族大会に出席、1922年7月日本共産党の創立に参画した。翌1923年第一次共産党事件で逮捕されるが、同年末保釈出獄し、1924年の解党に際しては、将来の党再建に備えて設置された連絡のための委員会であるビューローの一員となった。1925年1月上海(シャンハイ)でコミンテルン代表と会談し、帰国後山川均と離れて党再建活動の中心となり、行動的な左翼指導者として若手活動家の信望を集めた。1927年(昭和2)にテーゼ作成のためモスクワに行き、翌1928年衆議院選挙に立候補するが、その直後三・一五事件で検挙された。その後18年間獄中で非転向を貫き、1945年(昭和20)10月に出獄して日本共産党を再建し書記長となる。1946年衆議院議員に当選した。徳田の扇動演説は、旧来の権威が崩壊した戦後状況を象徴するものであったが、党内における家父長的指導は党内民主主義を破壊した。1950年1月のコミンフォルム批判をきっかけに党の分裂が起こるが、同年6月のマッカーサー指令による追放後、徳田は多数派を率いて地下活動に入り、抗米武装闘争路線を推進、これによって党勢は急激に減退した。昭和28年10月14日北京(ペキン)で客死した。
[赤澤史朗]
『理論社編集部編『徳田球一伝 惜しみなき献身』(1952・理論社)』▽『『徳田球一全集』全6巻(1985~1986・五月書房)』
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日本共産党の指導者。沖縄県生れ。苦学して日大を卒業し,弁護士となった。1920年日本社会主義同盟結成に参加,21年山川均主宰の水曜会に参加する。22年モスクワの極東民族大会に出席,帰国後の7月,山川,堺利彦らと日本共産党創立に参画した。中央委員。23年第1次共産党事件で検挙される。24年解党決議後,党再建のためのビューローの一員となり,〈27年テーゼ〉作成に参加する。28年普選第1回総選挙で立候補したが落選。同年三・一五事件で検挙され,以後,45年10月に釈放されるまで18年間獄中生活を送った。出獄後,声明書《人民に訴う》を発表し,党再建の中心として活躍し,中央委員会書記長に選出される。46年以来代議士に当選するが,50年のマッカーサーの〈6・6追放〉により公職を追放され,非合法活動に入る。厳しい追及をさけて中国に亡命し,客死した(その死は1955年の六全協で初めて公表された)。〈徳球(とつきゆう)〉の名で,戦後共産党の代表者として知られる。
執筆者:渡辺 悦次
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大正・昭和期の政治家 日本共産党書記長;衆院議員。
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1894.9.12~1953.10.14
大正・昭和期の日本共産党の指導者。沖縄県出身。日本大学卒。1922年(大正11)7月の日本共産党結成に参加。28年(昭和3)2月26日治安維持法違反容疑で逮捕され,45年10月10日まで入獄。釈放後は書記長として共産党再建に尽力し,46年2月の総選挙に初当選。50年マッカーサー指令により共産党幹部が公職追放になると地下に潜り,同年9月中国に亡命。53年北京で死去。
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…1926年12月再建された共産党は,金融恐慌下の労農争議や田中義一内閣の山東出兵に反対する対支非干渉運動を日本労働組合評議会(評議会),日本農民組合,労働農民党(労農党)などの合法組織をとおして闘いみずからの姿は秘匿していた。しかし27年12月の拡大中央委員会で,この年の7月に作成された綱領(27年テーゼ)を採択し,テーゼで指示された独自活動の方針にもとづいて工場内の組織づくりに着手し,翌28年2月には機関紙《赤旗》の創刊や第1回の普通選挙に徳田球一,山本懸蔵などの党員を労農党候補者として立てるなど新たな活動を開始していた。 共産党の動向を極秘裡に内偵をすすめていた警察当局は,3月15日未明を期して1道3府23県にわたって共産党員とその同調者と目される1568人を逮捕・勾留し,うち488人を治安維持法違反で起訴した。…
…この呼びかけで大会が開かれ,大会議長に鈴木東民が選ばれ,デモに移った。途中,参加者代表徳田球一らは皇居に入って天皇に会見を求めた。参加者の一人松島松太郎はプラカードに〈詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ〉と書き,不敬罪で起訴された(第二審で免訴)。…
…第2次大戦後の日本においても,〈生産管理〉を単なる争議戦術と考えるか,あるいはそれ以上の意義をもつものと考えるかについては,労働者政党内部において意見の相違がみられた。(1)まず徳田球一(《赤旗》1945年11月7日)は,〈労働者による産業管理〉について,〈死にする困窮から脱する〉ために,〈資本家の(生産)サボを克服する〉ために,不可避な方法であると主張する。(2)これに対して袴田里見(《赤旗》同前)は,横断的産業別組合結成への過渡的組織としての〈工場委員会〉が追求すべき〈任務〉は,〈工場管理に参加〉することにあるとし,〈工場管理を行ふ〉ことは〈一時的〉なもので〈常道ではない〉とした。…
…このころ,ロシア革命の成果を吸収した堺利彦や山川均らによるマルクス=レーニン主義の普及とコミンテルンからの働きかけがあいまって,21年4月には堺,山川らが中心となって日本共産党準備委員会を組織し,〈日本共産党宣言〉と〈日本共産党規約〉を採択した。22年1月から2月にかけてコミンテルン主催の極東民族大会に,アメリカから入露した片山潜らとともに日本から徳田球一,高瀬清,吉田一らが参加したことが契機となり,同年7月15日,正式の創立大会がもたれ,堺利彦が委員長となった。発足した党は,同年11月のコミンテルン第4回大会でコミンテルン支部・日本共産党として承認された。…
…しかしこの会議は,党内分裂状態のもとで進められ,平和的手段による革命の可能性を否定し,日本に植民地・従属国の革命路線を適用した〈51年綱領〉の影響下にあり,第7回大会にいたる過渡的な性格をもつものであった。また,この場で書記長徳田球一の死去(1953年10月)が公表された。【梅田 欽治】。…
※「徳田球一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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