長柄町
ながらまち
面積:四七・二〇平方キロ
茂原市の西に位置し、長生郡の北西部を占める。南部は長南町、西部は市原市と接する。北から西にかけては両総台地に連なり、南部を東流する一宮川は九十九里浜に向かう。最南端部の国道四〇九号に並行して東西に茂原・市原・千葉各市などと結ぶ主要地方道が通る。一宮川流域には七世紀後半から八世紀前半と考えられる横穴群がみられ、その東端の国府里は長柄郡衙が所在したことに由来する地名といわれ、刑部郷とともに古代の中心であったことがうかがえる。九世紀後半には奈良興福寺領として田代庄がみえ、道脇寺や胎蔵寺(現眼蔵寺)は早い創建といわれる。
長柄町
ながらまち
[現在地名]北区天満一丁目
天神表門筋を挟んで今井町の北に続く。南北に延びる天満橋筋の両側町。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図には北四丁目、貞享四年(一六八七)新撰増補大坂大絵図では天満橋筋に「なから丁」、のちの天満二丁目の地域にも「なから丁」とある。元禄年間(一六八八―一七〇四)の大坂三郷町絵図では町域が確定しており、初発言上候帳面写は北長柄四丁目が長柄町になったとする。おそらく長柄町は広く天満二丁目筋にまで及び、それが限定されたのかもしれない。なお「言経卿記」天正一五年(一五八七)五月二日条に「長柄町北魚屋妻」、同年七月晦日条に「長柄町森口屋」とみえ、当町との関係が考えられる。
長柄町
ながえまち
[現在地名]富山市長柄町一―三丁目・堀端町・西田地方町二丁目
富山城下の南西端にあたり、西は磯部村。安政元年(一八五四)の富山城下絵図(県立図書館蔵)は南北に延びる三本の筋を記す。散地のうち。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理には、古くは磯部庄散地とされたが、先年御用屋敷が引払われて町地となり、町名もそのとき長柄者が居住したことに由来すると記す。安永二年(一七七三)の書上は長柄町・中長柄町・東長柄町に分け、同八年の本家数一〇〇・貸家数八八で、一二丁目まであった。町方旧事調理も一二丁目までとするが、七丁目・九丁目・一一丁目に家はなく、上地されたとする。
長柄町
ながえまち
[現在地名]金沢市菊川一丁目
台所町の南西に連なり、鞍月用水を隔てて北東は新長柄町に続く。町名はもと長柄小者の組地であったことにちなむ。長柄小者は長柄の鎗といって三間鎗を持つ小者
をいった。江戸時代後期になると長柄小者のなかには帰郷・移転する者があり、代わって町人が住むようになって(金沢古蹟志)、文政六年(一八二三)に立町された地子町。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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