内モンゴル(読み)うちもんごる

日本大百科全書(ニッポニカ) 「内モンゴル」の意味・わかりやすい解説

内モンゴル(自治区)
うちもんごる

中国北部のモンゴル高原南部を占める自治区(一級行政区)。内蒙古(うちもうこ)、内(ない)蒙古、ネイモンクーともいう。面積約110万平方キロメートル、人口2300万9464(2000)。区都はフフホト

[河野通博]

自然

大部分はモンゴル高原上にあるが、南部は黄河(こうが)流域河套(かとう)平原を越えてオルドス高原に至る。その南は万里の長城を境に陝西(せんせい)省に接し、南西は寧夏(ねいか)回族自治区と接する。東は大興安嶺(だいこうあんれい)山脈東麓(とうろく)に達し、西は甘粛(かんしゅく)省、北はモンゴル国と接する。黄河の北には陰山(いんざん)山脈が東西に走り、南西部の寧夏回族自治区との境には賀蘭(がらん)山脈が南北に走る。中部以東は大部分が草原だが、河套平原と南東部とは農地となっている。西部はほとんどゴビ(礫質(れきしつ)砂漠)と砂漠からなり、とくに北西国境には広大なゴビが広がる。これに対して西部のバダインジャラン砂漠には高さ数百メートルの大砂丘が発達する。そのほかテンゲル、ウランブフ、ムウス、コプチなどの砂漠があり、また東部にも砂地が各地にみられる。砂地は過度の開墾、放牧の結果つくりだされた、人工的原因による小規模な砂漠であり、その緑化が緊急課題となっている。気候は大陸性で、冬は寒気は厳しいが雪は少なく、温暖な夏に降雨は集中する。年降水量は東部では400ミリメートル、西部では150ミリメートルしかない。冬は風が強く、砂の移動が激しいので、砂害を防ぐための防護林帯の造成に力が注がれている。

[河野通博]

産業

中国の重要な畜産基地の一つで、ヒツジ、ウシ、ウマの生産を主とするが、西部の乾燥したゴビ地帯ではラクダの繁殖が行われる。もとは家畜群とともに水草を追って移動する遊牧生活が営まれていたが、中華人民共和国成立後は定居放牧に発展し、家畜の衛生、飼育への近代科学の導入も進み、家畜頭数も増加した。ただし文化大革命(1966~1976)当時は穀物増産だけが強調され、牧畜業振興は軽視された。しかし1978年以後その誤りが是正され、牧野改良がふたたび重視されるようになった。そのため、牧畜業の発展が顕著になっており、砂漠化防止にも力が注がれている。

 農業は黄河沿岸の河套平原をはじめ漢族の住む自治区南部の諸県で盛んで、ことに河套平原では黄河からの引水で灌漑(かんがい)農業が発達し、「塞外江南(さいがいこうなん)(万里の長城の外の、長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう)デルタ)に匹敵する穀倉の意味)」と称せられ、小麦、ユウマイ(エンバクの一種)、キビ、ジャガイモ、サトウダイコン、食油用アマ、ヒマワリなどが生産される。興安嶺北部には針葉樹が繁茂し、その伐採が盛んで、森林鉄道が敷設されている。地下資源は多種類にわたるが、とくに石炭の埋蔵量は2170億トン以上といわれ、山西(さんせい)省に次いで全国第2位、1995年の生産量は7100万トンで全国第7位を占める。おもな炭田は従来の烏達(うたつ)、海勃湾(かいぼつわん)(ともに烏海(うかい)市)、石拐溝(せきかいこう)(パオトウ市)、ジャライノール(満洲里(まんしゅうり))に加えて、新しく霍林河(かくりんが)、伊敏河(いびんが)、平庄(へいしょう)(いずれも自治区東部)、ジュンガル、東勝(とうしょう)(ともにオルドス)などの特大露天堀炭田が次々と開発されている。パオトウ北方のバインオボには鉄と希土鉱物の鉱床がある。また吉蘭泰(きつらんたい)塩池やウジムチンをはじめ各地の塩湖では、塩、ソーダ、芒硝(ぼうしょう)などを産し、石炭とともに重要な化学工業原料となっている。工業としてはパオトウ鉄鋼公司(コンス)の製鉄所が全国第8位の粗鋼生産量を示すほか、機械、化学、毛紡織、皮革、製糖、乳製品、肉類加工などの工場が立地している。

[河野通博]

歴史と民族

南部は戦国時代には趙(ちょう)、燕(えん)などの諸国に属したが、大部分は少数民族の匈奴(きょうど)、東胡(とうこ)などの勢力下にあった。漢代にも南部は五原、朔方(さくほう)、雲中、上谷、右北平、遼西(りょうせい)、武威(ぶい)、張掖(ちょうえき)などの郡が置かれたが、北部には匈奴、烏桓(うがん)、鮮卑(せんぴ)などの民族が活動していた。唐代にも豊、勝、雲、営、霊(れい)、夏、凉、甘、粛(しゅく)などの州が置かれ、陰山山脈以南の黄河の沖積平野の開墾が行われたが、長期にわたることなく、かえって遊牧民族の万里の長城以南への進出に伴い、開墾された農地もふたたび草原化するありさまであった。12世紀末から13世紀初頭にかけてチンギス・ハンによってモンゴルの各部が統一され、ついでフビライ・ハンは全中国を支配し、元(げん)王朝の基を開いた。元代には内モンゴル自治区には上都が置かれ、上都、集寧、全寧、浄州、応昌(おうしょう)などの路が置かれた。明(みん)代以降もモンゴル族の居住地で、清(しん)朝は満洲族の八旗制度を拡充してモンゴル族の一部も八旗軍に編成し、八旗蒙古と称した。現在もシリンゴル盟南部にシュルンホフ旗、ホボトシャル旗など旗名として残っている。また清はモンゴル族統治のため軍事・行政単位として盟、旗の制を導入。辛亥(しんがい)革命後になって、清末から漢族が入植して農地化した所には県を置いたが、モンゴル族の牧区は旗制を踏襲し今日もその名称を受け継いでいる。中華民国時代にはチャハル、熱河(ねっか)、綏遠(すいえん)などの省が置かれたが、1947年共産党の指導下に、東北西部と熱河、チャハル両省北部の各盟が自治区を結成し、フフホトが自治区の区都となり、1954~1956年の間に綏遠、寧夏、甘粛、3省の一部が編入された。現在、ウランチャブ、シリンゴル、フルンボイル、イフジュ、バインノル、アルシャ、シンアンの7盟とフフホト、パオトウ、烏海、赤峰、通遼(つうりょう)の五つの自治区直轄市があり、その下に15市、17県、49旗、3自治旗がある。3自治旗はオロチョン族、ダフール族、エベンキ族の自治旗、15市は集寧(しゅうねい)、豊鎮(ほうちん)、エレンホト、シリンホト、ハイラル、満洲里、牙克石(がこくせき)、扎蘭屯(ザラントン)、根河(こんが)、エルグン(額爾古納)、フオリンクオル(霍林郭勒)、東勝(とうしょう)、臨河(りんが)、ウランホト、阿爾山(あじさん)である。民族構成としてはモンゴル族、漢族および前記3族のほか、朝鮮族、満洲族、回族が住む。

[河野通博]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「内モンゴル」の解説

内モンゴル(内蒙古)(うちもんごる(ないもうこ))
Inner Mongolia

現在は中華人民共和国の内蒙古自治区をさすが,歴史的にはゴビ沙漠をへだてて南側のモンゴル人の生活空間を呼んだ。清朝時代は,外モンゴルに比べ,清朝政府の統制が厳しく,さらに漢人農民の入植が進行していた。1911年に清が滅亡すると,外モンゴルは独立を宣言し,内モンゴルでも呼応する動きがみられたが,15年のキャフタ協定で自治モンゴル領域から除外された。21年に外モンゴルで人民革命が起こると,内モンゴルでもこれに連帯をめざす内モンゴル人民革命党が結成されたが,「国共合作」の破綻とともに消滅した。32年に日本の傀儡(かいらい)国家「満洲国」ができると,内モンゴルの一部は編入されたが,西部では徳王を中心に自治運動が起こり,やがて日本の支持のもと,蒙古連盟政府,ついで39年には蒙古連合政府が成立するが,モンゴル人よりも漢人が多数派を占める日本の傀儡政権であった。45年の日本の敗北とともに,再び自治運動が起こるが,中国共産党員であるウラーンフーの指導により,47年に内モンゴル自治政府が樹立され,新中国における区域民族自治のさきがけとなるとともに,内モンゴルの再統合も形式的には達成された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「内モンゴル」の解説

内モンゴル(内蒙古)
うちモンゴル

アジア大陸のゴビ砂漠以南に広がるモンゴル人の居住地の旧称
清朝以来,ゴビ砂漠北方の外 (そと) モンゴル(現モンゴル国)に対して用いられ,現在の中華人民共和国内 (うち) モンゴル自治区にあたる。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android