列藩会議論(読み)れっぱんかいぎろん

改訂新版 世界大百科事典 「列藩会議論」の意味・わかりやすい解説

列藩会議論 (れっぱんかいぎろん)

江戸末期の最終段階に現れた政治論。各藩より選出された代表者からなる会議を設け,これに最高の権力を与えることによって朝廷幕府・諸藩相互間の軋轢(あつれき)・対立を克服し,全国の一致を実現しようとした思想。思想的には,儒教の公論尊重思想を媒介として,西洋議会制度の観念が導入されたところに形成されたもので,幕藩的な権力割拠制の下に成立した議会論といいうる。歴史的には,公武合体論を継承しつつ,尊王攘夷ないし尊王討幕論に対抗して展開され,慶応年間(1865-68)には新しい政体構想という性格を帯びる。これを公議政体論と呼ぶ人もある。1867年(慶応3)に土佐藩が将軍徳川慶喜に大政奉還を働きかけ,慶喜がこれを受け入れて大政奉還に踏み切った背後には,この構想があった。慶喜らは奉還後に生まれるはずの列藩会議体制の下で,徳川本家が指導的地位を保持しうると予想して,行動していたわけである。そうであれば,尊王討幕派はこの動向に対立せざるをえない。しかし,この時期の討幕派は以前の尊攘派とは異なって,藩の組織に依拠しつつ存在していたため,藩を否定するような構想を打ち出すことができず,討幕後の新しい政体について,なんら明確な構想を提示していない。これは明治維新の過程において,明確な政体の構想としては,列藩会議論が唯一のものであったことを意味する。しかも,討幕派が優勢な藩でも,討幕派よりもより上層武士基盤として多かれ少なかれ列藩会議派が存在した。ここからして,討幕派は一面では列藩会議論と妥協せざるをえないことになる。維新の過程において,政治的対立の争点が必ずしも明瞭ではなく,幕府対薩長といった封建的権力相互間の権力争いという傾向が比較的強く出てくること,新政府成立より廃藩置県まで,各藩の代表者からなる機関が,議政機関より諮問機関へと後退しながらも,ともかく存続したことは,維新が尊王討幕論と列藩会議論との対立と妥協として進行したことと関係がある。
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