幕末・維新期に,欧米の議会制の知識を導入し,会議制度によって権力の再編ないし新しい統一をはかろうとした国家権力構想をいう。外圧と幕藩体制の矛盾によって崩壊の危機に面した徳川幕府は,公議政体論によって権力の再編成(再集中)をはかろうとしたが,幕府倒壊後は天皇への新たな権力集中を企図した維新政府が,〈公議輿論〉をスローガンとした公議政体論の制度化によって,支配の拡大と正当化を試みた。
老中阿部正弘は1854年(安政1),国家的危機克服のため意見を諸侯・有司に問おうとした。文久年間(1861-64)には公武合体論や諸侯会議論によって,幕藩体制の立直しが試みられた。慶応期(1865-68)に倒幕運動が起こり,薩長を中心とする西南雄藩と幕府との対立が極限に達する過程で,ヨーロッパ議会制の知識の導入による公議政体論の主張によって,権力の再編成が提示された。幕府の開成所教授西周助(周),津田真一郎(真道),加藤弘蔵(弘之)らや,横井平四郎(小楠。肥後藩),後藤象二郎(土佐藩),坂本竜馬(同)らが,これを主唱したのである。もとより,こうした意見に老中板倉勝静らは危惧を表明していた。しかし67年10月14日,将軍徳川慶喜が大政を奉還するや,公議政体論による権力構想はより具体的となった。例えば西は〈大君〉の座に徳川慶喜をつけ,そのもとに〈公府〉(大坂)と〈議政院〉(上院,下院よりなる)をおく新たな徳川統一政権を〈議題草案〉として立案したが,この案では天皇は山城国に封じられ,政治の実権をもたないものとされている。坂本の〈船中八策〉や津田の〈日本国総制度〉も,若干のニュアンスの違いはあるが公議政体論の発想である。
68年(明治1)の戊辰戦争開始による討幕軍の軍事力発動によって,旧幕府軍が敗れてからは,討幕派出身の維新官僚は〈公議輿論〉を高唱し,とりわけ,〈五ヵ条の誓文〉によって天皇中心の維新政権がそれを尊重することをうたった。これは〈公議〉と〈天皇〉とのセットによって,新しい権力支配の拡大と天皇への権力集中を企図していた。その制度化は68年閏4月21日の政体書で表明されたが,参与福岡孝弟(たかちか)(土佐藩)・同副島種臣(肥前藩)が起草し,日本の古典と《聯邦志略》(アメリカ,ブリッジマン著)や《万国公法》(同,ホイートン著),あるいは福沢諭吉の《西洋事情》などを参酌したものである。以後,それは議政官における上局や下局,徴士や貢士,あるいは下局を改称した貢士対策所,貢士の系譜をひく公務人や公議人,さらに公議所,待詔局,集議院などの公議機関となり,69年5月には,三等官以上の選挙で輔相・議定・参与以下が選ばれたりした。また,諸藩においては,68年10月28日の〈藩治職制〉で議事制度が試みられ,藩議院,議事所,集議所,衆議院,議事局などとよばれる機関がつくられた。しかしこうした方向は,明治政府の権力形成に反比例してうすめられ,逆にその有司専制化に対して,自由民権運動の側が五ヵ条の誓文の理念を国会開設要求と結びつけて主張するにいたり,明治政府と対立した。
→列藩会議論
執筆者:田中 彰
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幕末期の国家権力構想の一つ。欧米の議会制度の知識を借りて、崩壊に直面した幕藩体制の再編強化を図ろうとして生み出された。文久(ぶんきゅう)期(1861~64)の公武合体論や諸侯会議論などの延長線上で、慶応(けいおう)期(1865~68)には、欧米の議会の上院・下院になぞらえて、諸侯や有能な藩士を議員とする議会設置を盛り込んだ新しい統一国家が構想された。坂本龍馬(りょうま)の「船中八策」、西周(あまね)の「議題草案」、津田真道(まみち)の「日本国総制度」などは、いずれもこの公議政体論を取り入れており、当時としてはもっとも具体的な政権構想であった。とくに西の草案では、その頂点に「大君(たいくん)」を置き、第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)をあてようとしていた。慶喜がいわゆる大政奉還をしたのは、いずれはこの「大君」の位置につけるという見通しがあったからだ、といわれている。しかし、現実には戊辰(ぼしん)戦争による敗退で、権力の頂点には天皇が登場した。
[田中 彰]
幕末・維新期の公議輿論にもとづく会議制度による国家権力構想。ペリー来航による開国要求は,幕府独裁体制の維持を困難にし,朝廷・諸侯との政治的合意・結束を求めることになった。条約締結・将軍継嗣問題における一橋派の政治統合構想が原初で,文久期の公武合体運動をはじめとして1864年(元治元)の参予会議や67年(慶応3)の諸侯会議はその実現形態である。坂本竜馬の「船中八策」などの権力再編成構想にもこの発想がある。その後,幕府の大政奉還建白を機に公議政体論は具体的となり,公議の担い手は藩主層から藩士・豪商農層へと広がり,西洋の上下議院論をとりいれる構想をうむ。維新政府も公議輿論を大義名分として五カ条の誓文と政体書にうたったが,他方では天皇を絶対化する動きもあり,公議政体論はむしろ,明治政府を有司専制として批判した自由民権運動の国会開設要求にその理念が継承されることになる。
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…歴史的には,公武合体論を継承しつつ,尊王攘夷ないし尊王討幕論に対抗して展開され,慶応年間(1865‐68)には新しい政体の構想という性格を帯びる。これを公議政体論と呼ぶ人もある。1867年(慶応3)に土佐藩が将軍徳川慶喜に大政奉還を働きかけ,慶喜がこれを受け入れて大政奉還に踏み切った背後には,この構想があった。…
※「公議政体論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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