改訂新版 世界大百科事典 「公武合体論」の意味・わかりやすい解説
公武合体論 (こうぶがったいろん)
江戸時代末の国内政治構想の一つ。朝廷(公)と幕府(武)との協力をはかり,これによって政局の混乱をおさめ外敵に対処しうる政治体制を作り上げようとする考え。広く受け入れられた構想であったが,現実にはそれによる者たちの立場や利害が複雑にからみあい,ついに有効な打開策とはならなかった。
ペリーの来航に始まる欧米各国の対日接近は,挙国体制の確立を国内緊急の課題とした。だが,全国政治の権を握る幕府はその指導力の限界をあらわにし,逆に儀礼上の最高権威にすぎなかった朝廷がその地位を政治的なものに高めていた。こうした中で時の課題に答えるべく,両者の一致協力が説かれたのである。とはいえ,その議論は,対外措置をめぐる意見対立を未解決の問題としてひきずっていた。またそれを説く者の打算がからむことは避けがたかった。1862年(文久2)に成った皇妹和宮と将軍徳川家茂との婚儀は,朝廷と幕府の双方が公武合体論によって歩み寄ったことを示している。だが,朝廷はそこに攘夷の実行を期待し,幕府は対外問題を棚上げにして朝廷の権威を自己の政治支配の安定に利用しようとしていた。このような食違いの下で政局をいっそうの混乱に導いたのが,尊王攘夷を叫ぶ諸藩の志士たちであった。彼らは朝廷への工作を介して幕府を攘夷確約に追いつめ,しかもその政治攻勢の間に敵対者の暗殺や外国人の襲撃を繰り返したのである。しかしこれに対しては,公武合体論による雄藩勢力が反撃に出ることになった。尊王攘夷の急進分子を朝廷周辺から一掃したいわゆる文久3年8月18日の政変がそれである。名望を集める藩主をもつ雄藩は,朝廷と幕府の協力関係をとりもつことによって全国政治への参画を果たそうとし,すでに薩摩・土佐・越前などがそれぞれの周旋努力を重ねていた。尊王攘夷派の政治攻勢は,そのわずかながらの成果をも押し流す結果となっており,雄藩の多くが開国を是認して攘夷の実行を危ぶんでいたことを考え合わせるなら,衝突はほとんど不可避のなりゆきであった。だが,雄藩が勝利をおさめては,雄藩と幕府との利害対立が前面化せざるをえなかった。朝廷の膝下に有力藩主らを成員とする参与会議が発足して雄藩の国政参加が達成されたかに見えたが,自己の政治権限を守ろうとする幕府が朝廷の攘夷論に迎合するなどしてその運営を妨げ,ついにこれを破綻に導いたのである。公武合体論は,こうしたつまずきを経て国内政治の主潮流であることをやめたといえる。以降は,幕府と反幕の雄藩とが実力をもって対峙する局面となり,朝廷はもっぱら利用争奪の対象と化してゆく。公武合体論を貫く相互協力の趣意は,なお公議政体論の形をとって中間派の雄藩に受け継がれ,幕府も結局はこれに依存せざるをえなかったが,そのときは,反幕の雄藩が尊王攘夷派から転身したリーダーに指揮されて,大きく武力討幕に踏み出していた。
執筆者:菊地 久
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報