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公武合体論 こうぶがったいろん

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世界大百科事典 第2版の解説

こうぶがったいろん【公武合体論】

江戸時代末の国内政治構想の一つ。朝廷(公)と幕府(武)との協力をはかり,これによって政局の混乱をおさめ外敵に対処しうる政治体制を作り上げようとする考え。広く受け入れられた構想であったが,現実にはそれによる者たちの立場や利害が複雑にからみあい,ついに有効な打開策とはならなかった。 ペリーの来航に始まる欧米各国の対日接近は,挙国体制の確立を国内緊急の課題とした。だが,全国政治の権を握る幕府はその指導力の限界をあらわにし,逆に儀礼上の最高権威にすぎなかった朝廷がその地位を政治的なものに高めていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

公武合体論
こうぶがったいろん

幕末期、公(朝廷)と武(幕府)とが一体となって内外の政局に対処しようとした考え方。幕府側より提起され、孝明(こうめい)天皇の異母妹和宮(かずのみや)の将軍徳川家茂(いえもち)への降嫁案で具体化した。時勢の展開とともに福井(松平慶永(よしなが)〈春嶽(しゅんがく)〉)、高知(山内豊信(やまうちとよしげ)〈容堂〉)、宇和島(伊達宗城(だてむねなり))、鹿児島(島津久光(しまづひさみつ))ら雄藩勢力の介入をみるに至り、尊攘(そんじょう)・倒幕派の運動激化に対応しながら中央政局の実践的政治論となった。
 もともと、朝廷・幕府が和解・協力して治平を図るという考え方は江戸中期以前からあり、新井白石(あらいはくせき)は、皇子出家の慣例をやめ親王家をたてるべきことを進言し、閑院宮(かんいんのみや)家創設が実現している。幕府の支配権力の安定期にあっては、天皇にかわり将軍家が大政をとることを神々の心にかなうめでたき世の姿とみる本居宣長(もとおりのりなが)や、封建体制の頂点にたつ将軍家が大名以下を統率し天皇へ尊敬の誠を捧(ささ)げることを秩序正しい尊王のあり方とする水戸学の主張が思想的基盤となっていた。しかし幕末に至り対外危機の深化に伴う反幕府的機運の高揚に対処するため、幕府は朝廷の神秘的・伝統的権威と結ばざるをえなくなった。老中阿部正弘(まさひろ)は幕閣専制を改めて、徳川斉昭(なりあき)、島津斉彬(なりあきら)らと協調して政局安定を図り、1846年(弘化3)海防勅諭にこたえて対外状況を朝廷に説明し、ペリー来航、和親条約締結に際してもそのつど報告した。次の老中堀田正睦(ほったまさよし)も日米修好通商条約調印を前に上京、勅許を求めたが、これらは公武合体政策の現れであった。ところが大老井伊直弼(いいなおすけ)の専断調印後の権力政治、安政(あんせい)の大獄などにより朝幕関係は険悪化したが、井伊時代に緊張緩和の礎石として画策された和宮降嫁は、桜田門外の変後、老中安藤信正(のぶまさ)によって1862年(文久2)実現をみたのである。しかしこのころ幕府はすでに自らによる中央政局の統率力を失っており、雄藩の介入が始まった。島津久光の進言による一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の将軍後見職就任および松平慶永の政事総裁職実現後、公武合体運動の主導権は幕府の手から前記4藩に移り、その協力・援助によって幕府はその地位を保つにすぎなかった。1864年(元治1)の第一次征長役後、雄藩が幕府をもり立て時局収拾することに熱意を失うとともに公武合体論はしだいに行き詰まり、66年(慶応2)鹿児島藩が倒幕派に転じ、攘夷(じょうい)を熱望しつつも幕府信任を変えなかった孝明(こうめい)天皇の崩御をみるに及んで解体した。その後、豊信、慶永らによる公議政体論の主張、大政奉還建白で主導権を握ったかにみえたが、倒幕派によって前将軍慶喜の新政権参加が葬られたことで公武合体論は政治生命を終わった。[山口宗之]

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世界大百科事典内の公武合体論の言及

【攘夷論】より

…64,65年(元治1,慶応1)を境として尊王攘夷運動が尊王討幕運動に転換する,つまり運動の焦点が国内体制の変革に集中するようになると,攘夷という言葉は漸次使われなくなり,なお使われる場合にも,後述の国家平等の観念の影響をうけて,近代的な国家の独立の観念に接近していく。 ところで,華夷思想に対する具体的批判は,尊攘運動と対立した公武合体論の流れのなかから出てきた。当初においては,それは華夷思想が西洋科学技術の導入や西洋諸国に対する現実的で柔軟な対応を妨げるのを防ぐ,という政略的観点に発しており,一部の攘夷論者の意見とそれほど隔たったものではなかった。…

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