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劉勰 リュウキョウ

デジタル大辞泉の解説

りゅう‐きょう〔リウケフ〕【劉勰】

[466?~532]中国、南朝梁の文学評論家。東莞莒(とうがんきょ)(山東省)の人。字(あざな)は彦和(げんわ)。仏法を修めるかたわら、「文心雕竜(ぶんしんちょうりょう)」を著した。

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大辞林 第三版の解説

りゅうきょう【劉勰】

465頃~532頃) 中国、南北朝時代の梁りようの文学者。字あざなは彦和げんわ、のち仏教に帰依し慧地えちと改名。経論に博通していた。著「文心雕竜ぶんしんちようりよう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

劉勰
りゅうきょう
Liu Xie

[生]泰始2 (466)頃
[没]普通1 (520)頃
中国,六朝時代の文芸理論家。莒(きょ。山東省)の人。字は彦和(げんわ)。幼少で父を失い,家が貧しかったので結婚もできず,僧門に頼って勉学した。天監の初め,臨川王の記室となり,南康王の記室を経て東宮通事舎人となり,昭明太子に認められた。のち出家して慧地と名のったという。中国における最初の体系的な文学評論書『文心雕竜』の著者として知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


りゅうきょう
(466?―520?)

中国、六朝(りくちょう)(りょう)の文人。字(あざな)は彦和(げんわ)。東莞(とうかんりょ)(山東省県)の人で、京口(けいこう)(江蘇(こうそ)省鎮口)に居を構えた。幼くして父を失い、家は貧しく結婚もできぬほどであったが、早くから学問を好み、名僧僧祐(そうゆう)のもとに十数年身を寄せて仏教学を学び、定林寺(南京(ナンキン))の経典を整理する仕事に携わった。その間、中国最古の総合的な文学理論の書である『文心雕竜(ぶんしんちょうりょう)』10巻を著した。その書は文壇の重鎮沈約(しんやく)の絶大な評価を受けた。その後、記室、参軍などの小官を経て東宮通事舎人となり、梁の昭明太子蕭統(しょうとう)の信任を得、太子編纂(へんさん)の『文選(もんぜん)』にも彼の創作理論が大きな影響を与えている。晩年、出家して慧地(えち)と名を改めた。[根岸政子]

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世界大百科事典内の劉勰の言及

【中国文学】より

…文学の評論は曹丕の〈文を論ず〉の一篇に始まり,作家の個性が論じられた。前述の陸機の〈文の賦〉は創作活動についての思索の結果などを韻文でつづったが,劉勰(りゆうきよう)の《文心雕竜(ぶんしんちようりよう)》は50章の大作で,陸機の示唆したところを体系化し,精密に詳しく述べた。全文が四六文で書かれている。…

【文心雕竜】より

…中国,南朝梁の劉勰(りゆうきよう)の著になる文学理論の書で,10巻50章から成る。〈ぶんしんちょうりゅう〉ともいう。…

【論】より

…綸は世務を経綸すること,輪は円転無窮の意,理は万理を蘊令(つつ)むこと,次は論述に秩序あること,撰は群賢が定稿を編集する意,というのが鄭玄の解釈であるが,この解釈は文体としての〈論〉にそのまま適用できる。曹丕(そうひ)の《典論》論文は〈書・論は宜(よろ)しく理なるべし〉と言い,陸機の《文賦》は〈論は精微にして朗暢〉と言い,劉勰(りゆうきよう)の《文心雕竜(ぶんしんちようりよう)》論説篇には,聖人の教えを経と言い,〈経を述べ理を叙するを論と曰う〉と説く。劉勰はまた論を,是非を弁別する為のものであり,具象を究明し,抽象を追求し,障害を克服して理解し,深淵の中から真理を捜し出すこと,換言すれば,多数の意見を正しく導く手段であり,多くの事物の価値を量る計器であるとも説明し,班彪(はんぴよう)の《王命論》,王粲(おうさん)の《去伐論》,嵆康(けいこう)の《声無哀楽論》などを優れた作と推奨する。…

※「劉勰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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