中国華北の東部を占める省。面積約15.3万km2。人口8997万(2000)。泰山,魯山,蒙山などから成る山地(魯中・魯南山地),山東半島と周囲の平地を省域とする。北は黄河下流の沖積平野を広く含んで河北と接し,西も黄河に沿って銅瓦廂の屈曲点までを含んで河南と接するが,南は魯南山地の山麓部で江蘇省,安徽省と接する。東は渤海,黄海に臨する。
山東の山地はいずれも低平で,中小河川によって縦横に開析され,高度200mまでの山麓台地が大部分を占め,最高所でも泰山の1524mにすぎない丘陵地となっている。黄河下流部の沖積平野が,しばしば本流路の変更をともなう大はんらんをくりかえし,きわめて不安定な状態であり続けたのに比べると,地形的に安定した生活空間を提供している。またとくに急峻でもない山地内は,開析された河谷を通じて,相互の交流は容易で,防御においても有利な条件をもち,一つのまとまりを形成しやすかった。気候は東西の較差が大きく,半島部が海洋の影響を受けて温暖湿潤であるのに対し,西部は大陸性気候で乾燥している。年平均気温は12℃前後,年降水量は600~800mm。しかし西部でも山地には,一定の降水量があるかぎり地下水として保持され,山麓部に恒常的な湧水をもたらしている。これも安定した生活,産業の発展に寄与するところが大きかった。このように,地勢や気候からみて,山東は華北平原のなかで最も安定した自然条件をもつ地域であるといえよう。
新石器時代,黄河中下流域には多様な文明が形成されたが,山東では約5000年前,大汶口(だいぶんこう)文化(泰安県大汶口遺跡を代表遺跡とする)と呼ばれる進んだ文化が,ほぼ山東全域に広がっていた。この文化は,同時期に西の中原地方にみられる仰韶文化とはやや性格を異にし,むしろ江南地方から淮河(わいが)下流域にみられる青蓮崗文化と共通するところが多く,山東より沿海に長江(揚子江)下流域まで続く,一連の文化が形成されていたと考えられる。しかし山東内部からも仰韶文化の遺跡も発見されており,中原地区との交流も盛んであったことが知られている。
大汶口文化を継承するように出現するのが竜山文化(済南市章丘県竜山鎮城子崖遺跡を代表遺跡とする)で,黒陶と呼ばれる高度に発達した土器製作技術や精巧な玉器加工技術をもち,すでに相当すすんだ社会段階にあった。竜山文化は,さらに西方の河南,陝西や他の地方にまで広がり,新石器時代末期の黄河流域における最も優勢な文化となった。やがて中原ではその文化を基礎に夏王朝が形成されていったとされるが,山東には固有の地方文化をもつ勢力があり,これらと夏王朝との交渉が,伝説としていくつかの古典に記されている。
新石器時代に形成された山東の特性は,殷・周時代以後も保持され,中原に基盤をもつ王朝にとって,つねに意識せねばならない存在であった。殷代にはその類縁関係から,山東は中原王朝の後背地として,一時期都が置かれたほどであった(南庚王のときの奄)。しかしより西方より転進して中原を占拠した周にとっては,殷との関係も深かった山東一帯の勢力は,大きな敵対勢力であった。山東北部の蒲姑(今の淄博(しはく),博興付近)と南部の商奄(今の曲阜付近)はその主要なもので,周の武王はこの二者を平定し,おのおのに斉と魯の2国を建て,近親者を封じて安定をはかった。
魯は小国で国力もふるわず,国内の混乱もあり,政治・軍事的には春秋戦国時代を通じて重要な役割は果たさなかったが,始祖に周武王の弟周公旦をもつという伝統があり,また孔子が魯公に仕え,魯国の国史に基づいて《春秋》を編纂したことなど,文化的には大きな意味をもち,魯国の故都曲阜や泰山は,儒教の聖地として長く特別の機能を果たす地域となった。これに対して斉は,春秋戦国時代を通じての強国の一つで,春秋初期,桓公が管仲を用いて国内の行財政改革に成功し,国力を高め覇主となりえた。境域も今の山東の大部分を占め,戦国時代に至っても七雄の一つとして秦の勢力拡張に長く抵抗した。国都の臨淄(りんし)(今の淄博市)は,周の都洛陽をもしのぐ規模をもち,政治・経済・文化の面で全国第一の中心都市であった。しかし周囲の列強を従えて迫る秦の勢いに抗しがたく,ついに前221年,秦に併合され,ここに秦の天下統一が完了した。
戦国時代,戦乱のなかで一般に学術文化は衰退したが,斉魯地方はすたれなかった。秦は焚書坑儒を行って文化の統一をはかったが,斉の地方では済南の伏生が書物を壁に埋めこんで残したというように,伝統が受け継がれ,また魯でも孔子の子孫,弟子が礼法を伝えていた。漢代に,さまざまな学術文化が復興してきたとき,その基盤となったのはこの斉・魯に伝えられたものであった。当初は治世の原理は儒教にではなく,無為隠静を旨とする黄老(黄帝,老子)の説に求められたが,それを推進したのは,高祖のとき,斉の大臣として地元に伝わる黄老の説に従って善政を行い,恵帝のときに丞相に採用された曹参であった。また武帝以後は,儒教が国家治世の原理として圧倒的な勢力をもつようになるが,その草創の時期に丞相として力を尽くした田蚡(でんふん)(?-前131)は斉に封邑をもつものであり,つづいて最も功績のあった公孫弘は斉の菑川(しせん)の出身であるなど,斉との関係が深かった。以後,漢の朝廷で活躍した儒者の多くは斉・魯の出身者,すなわち斉・魯の文化的伝統を身につけたものであった。国の中心は関中に置かれたものの,その文化的基盤を醸造したのは斉魯地方であったといえよう。
山東とは元来,太行山脈の東という意味で,山西に対する概念で,広く華北平原全体を示すものであった。秦代には,それ以前の地域的まとまりに従って,膠東(こうとう)郡,臨溜郡,瑯邪(ろうや)郡,済北郡,薛(せつ)郡などの諸郡が置かれ,関中,中原と並んで居住密度の高い,開発の進んだ地域であった。漢代には,南部は徐州刺史,西部は兗(えん)州刺史に属したほか,東部,北部の主要部は青州刺史に属した。以後,後漢・南北朝・隋代を通じて,行政領域としてはこの3地域に分属する形が続いた。唐代には淮河と黄河の間が河南道とされ,安史の乱以後,内地にも節度使が設けられると,この地区は溜青節度使の領有するところとなり,最も境域の拡大した大暦年間(766-779)ころは,鄆(うん)(現,東平県)に中心を置き,ほぼ現在の山東省に近いものであった。宋代には大部分が京東路(のち東西両路に分かれる)に属し,首都開封に近く,京畿の後背地であった。金が華北を占有すると,宋の京東東路・西路を,おのおの山東東路・西路と改め,ここに山東の名が行政区画名として出現した。東路の治は益都,西路の治は東平に置かれた。元代には,首都北京に近いため,全体として中書省に直属し,行省は置かれなかったが,中書省直隷部があまりに広大なため,益都に山東東西道宣慰使が置かれ,これが明代に山東布政使司として受け継がれ(治は済南),現在の山東省の原型となっている。
華北平原において山東は,黄河流域と淮河流域の中間にあたり,沿海地区における南北交通を掌握できる位置にあり,また平原の東部に広大な丘陵地を基盤にし,さえぎるもののない中原に対し,東より支配できる位置にある。また東を海洋に臨していることは,背後の考慮を必要とせず,また海洋を通じて他の世界と交渉しうる位置にもあった。すなわち必要があれば,山東を拠点とする勢力は,西の中原へ,北の河北へ,南の江淮へと自由に進出できる位置にあった。先秦時代の《子華子》はこれを〈斉之為国也,表海而負嵎,輪広隈澳,其塗之所出,四通而八達,游子之所湊也(斉の国は,海に面し山を背負い,国土は広壮で奥深く,その道路は四方八方に通じている。遊俠豪傑の集まってくるところである)〉といっている。同じように河南(魏)も,四通の地,四通五達の地などと呼ばれたが,内陸部の交通から,しだいに沿海部に交通の中心が移るにつれ,さらに大運河の開通,海運の発達にともなって,山東のほうがより重要な地位を占めるようになった。
上記のようなすぐれた交通上の位置と,安定した自然にもとづく生産力をもつ山東は,基本的に中原を東で支える後背地であった。関中(広義の山西の一部)が西で中原を支える後背地であり,閉鎖的な地域性のゆえに中原の防御的後背地として機能したのに対し,山東は開放的地域性で中原を支えた。したがって山東は国都が華北に置かれたときに,その特性を最もよく発揮した。とくに関中の奥地から中原の開けた地に都が移された宋代以降は,京畿を支える重要な後背地であった。山東半島の膠州湾に板橋鎮が置かれ,江南や南海との交易に重要な役割を果たしたのも,このときからであった。また北京に都が置かれ,江南と結ぶ大運河が山東を通過するようになった元代以後は,文字どおり都の死命を制する位置にあった。海運でも,山東半島の登州,萊州など各港は,江南と河北を結ぶ航路の中継基地として,きわめて重視されていた。このことは逆にみれば,中央に対して反逆するものが拠点として第一に選ぶところとなり,とくに魯中山地の南西,曹州一帯は匪徒の巣といわれた。《水滸伝》の梁山泊も,ここに設定されているのである。また明代には,山東半島は倭寇の主要な攻撃目標となり,沿岸各地は荒廃した。
上記のような性格をもつ山東は,清末の列強の侵略に格好の門戸ともなった。日清戦争ののち1895年(光緒21),ロシア,ドイツ,フランスは,いわゆる三国干渉によって日本の遼東半島での利権獲得を制したが,その見返りとしてロシアは遼東半島を,ドイツは山東半島を要求した。いずれも華北を南北よりうかがう絶好の拠点であった。ドイツは1897年,山東曹州巨野県で自国の神父が殺害されたことを口実に,膠州湾を占拠し強引に租借を迫った。この租借は翌年結ばれた条約からも判明するように,単に一港湾を租借するだけにとどまらず,内陸への鉄道の建設,さらに山東省全域での利権の確保を求め,中国本土への直接的侵略の意図を明確にしたものであり,引き続いたロシアの旅大,イギリスの威海衛占拠など,列強の新しい侵略の先駆けをなすものであった。ドイツは膠州湾に西洋型の計画都市青島(チンタオ)を建設し,近代工業も興された。
三国干渉で譲歩を余儀なくされた日本は,第1次大戦に連合国側として参加し,1914年膠州湾のドイツ軍を破り,ドイツの保有していた利権を受け継ごうとした。このとき日本の提出した〈二十一ヵ条要求〉に対しては,中国国民は国際世論を背景に反対運動をおこし,条約の廃棄と山東の返還を求め,ついに1922年のワシントン条約で,山東の利権は放棄させられた。これを〈二十一ヵ条問題〉あるいはその第1項が山東についてであったため〈山東問題〉という。しかしその後も日本は中国本土をうかがう基地として山東を利用し,1927-28年,国民党の北伐に際し,田中義一内閣は2度にわたり山東に出兵し,第2次出兵のときには済南事件をひきおこした(山東出兵)。
山東は安定した自然の恩恵を受け,また天然資源にも恵まれ,すべての産業において華北で有数の生産力を誇るばかりか,いくつかの部門では全国でも第1位にある。まず農業では耕地面積は省面積の半分に近い約680万ha,そのほとんどは冬小麦,トウモロコシ,豆類,いも類等が植えられる畑である。稲の栽培は非常に少ない。小麦の生産量は河南に次いで全国第2位であり,トウモロコシは第1位である。ついで綿花,ラッカセイ,テンサイ,アサ,タバコなどの経済作物が栽培され,ラッカセイは31.7%(1993,以下同じ)を産出して全国第1位である。そのほか油料作物の生産も全国第1位である。養蚕,果樹栽培も盛んで,とくに果物はリンゴ,ブドウなど全国の16.7%を産出して第1位である。これらの畑作は,魯中山地やその周囲の台地はもちろん,黄河下流域の平原も,かつて塩土化に悩まされた地域が,灌漑設備の建設,土壌改良の実施などで,安定した耕地に生まれ変わった結果,高い生産力をもつにいたったものである。
牧畜の面でも,ブタ,ヒツジ等の保有頭数は華北第1で,食肉,乳製品,羊毛等の畜製品を産出して,自省以外の都市部へ供給している。また水産業の面でも,山東半島周辺には,烟台,石島,萊州,青島等の有数の近海漁場があり,海産漁獲高では広東省や福建省を抜いて全国第1位になった。これには近年の養殖漁業の発達も大きく寄与している。海産品の養殖については全国で指導的役割を果たしている。製塩についても,青島,日照付近に海水からの製塩場があり,全国第1の23.2%の原塩を生産している。鉱物資源においても,石炭のような基本的資源が,河北,河南に次ぎ,黒竜江省と並ぶ産出量をもつほか,鉄鉱石にも不足せず,これに加えて金,銅,アルミニウム,ニッケル等の有色金属や,セッコウ,石墨,重晶石,雲母などの工業原料を豊富に産出する。またこれまで不足していた石油は,勝利油田の開発によって,黒竜江省の大慶油田に次いで,全国の22.5%を産出している。むしろ首都圏,沿海経済発展地域に近いという利点を生かして今後の発展の可能性が大きい。あわせて天然ガスの産出も増えている。電力も火力による発電量は,全国第1位である。
このように豊かな資源をもとに,工業も安定した発展をみせている。部門別にみれば,従来は軽工業部門がよく発達しており,紡績,織布,製紙,自転車,時計,薬品などで高い生産量をもち,江蘇,広東に次いでいる。しかし近年は,重工業部門も飛躍的に発展し,江蘇に次いで全国2位の生産量をもつようになっている。その結果,工業総生産額では江蘇に次いで全国2位となり,3位の広東と並んでいる。これは東部沿海地区の開放経済の進展によってもたらされたもので,山東の半島部は沿海経済開放区に指定され,青島と烟台が対外経済開放都市としてその中核都市としての役割を果たしている。とくに山東地区の特色は,東アジア交易圏に近接しているという利点を生かして,発展著しい韓国との経済交流を深めたことによる発展である。韓国との間にはフェリー航路も設けられ,烟台・青島を中心に経済投資が盛んになっている。韓国以外にも,香港・台湾資本の進出も盛んで,大連とならんで青島は黄海経済圏の中核都市となり,山東全体の発展を牽引している。このように発達した産業により,国内生産総額は1982億元(1992)にのぼり,全国で広東に次いで第2位である。これを,農業,軽工業,重工業の部門別にみると,著しく工業に片寄っている上海などに比べると,きわめてバランスの良い生産構造をもっており,また広東や江蘇に比べれば農業による割合が高く,多様な経済作物の栽培の成果を示している。
山東の人口は8738万(1996),済南,青島,淄博の省直轄市を除いて9地区に分かれ,10市104県を有する。人口密度は568人/km2で,3特別市を除けば江蘇に次いで高い。しかし都市人口比は17%と,3特別市を除く全国平均よりは少し低い。これは都市化が進行していないというよりは,省全域に居住区が広がり,古くから農業開発が進んだ結果,人口の大部分が農村部に集積され,まだ農業によって人口が支えられている結果である。集約的な経済作物の生産を行っているのも,この農村人口である。省内での大都市は工業都市青島(677万,うち市区人口214万,1994)で,省都済南(同537万/243万)と淄博(同391万/254万)がこれにつづく。大規模な人口をもつ都市は少ないが,中小規模の人口をもつ都市は多く,都市ネットワークがよく発達している。鉄道はこれらの都市を基点に発達しており,京滬(けいこ)線(北京~上海)が省西部を済南を通って南北走し,済南より淄博を通って青島までの膠済線が走る。これはもともとドイツによって青島から1904年(光緒30)に建設されたもので,今は淄博(張店)から博興や勝利油田に延びる支線と,藍村から烟台に至る藍烟線が分岐する。また京滬線でも,泰安,磁窯,兗州から短い支線が延びて,地方の中心都市とを結ぶ。
古く春秋時代から栄えた歴史をもつ山東は,各地に多くの古跡をもつ。とくに,曲阜を中心とする儒教関係の古跡,秦代より六朝に至る多くの石刻群,〈五岳之首〉と呼ばれた泰山などは,古来から文人の敬慕の対象であり,李白,杜甫,蘇軾(そしよく)などによって多くの詩歌にうたわれた。山東自身も名士の輩出する地といわれ,京畿とは離れていても,独特の文化的伝統を保った。これらの古くから著名な名勝古跡に加え,近年,中国古代史上の重要な遺跡が多く発掘されている。先に触れたもののほか,臨沂(りんぎ)県の銀雀山漢墓からは先秦時代の古籍が発見され,沂南県の漢墓からも多くの画像石が発見されるなど,貴重な資料を古代研究に提供している。また自然条件を生かした観光資源としては,泰山の登山と青島周辺の海岸地帯での保養がある。泰山は五岳の中でも最も人気が高く,海外からの観光客も多く,青島は新しい都市型のリゾート地として旅行者をひきつけており,海外からの投資による観光施設の建設もすすめられている。
執筆者:秋山 元秀
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「シャントン(山東)省」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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