加村(読み)かむら

日本歴史地名大系 「加村」の解説

加村
かむら

[現在地名]流山市加・平和台へいわだい一丁目・同五丁目・流山一―二丁目など

流山村・西平井にしひらい村の北に位置し、江戸川堤に向けて西方へせりだした丘陵直下の谷津に開ける。江戸時代、江戸川堤には加村河岸が設けられ、幕末には同河岸を見下ろす台地上に駿河田中藩の加村陣屋が置かれた。松戸―野田往還が縦断し、同往還から分岐して加村河岸から東方台地上へ進み、布施ふせ(現柏市)へ通じる道(諏訪道ともよばれる)が通る。「本土寺過去帳」に「良賢寺日誠 加村長延山」とみえ(上・一〇日条)、永享九年(一四三七)六月には日誠十三回忌の仏事が行われている。同帳ではほかにも天正(一五七三―九二)・慶長(一五九六―一六一五)・元和(一六一五―二四)年号がある加村・カムラの結縁者がみえ、また「妙鏡善門 矢木加村 九郎三郎」とあるので(中・一三日条)矢木やぎ郷のうちであったと考えられる。

慶長一九年の小金領野馬売付帳(綿貫家文書)に村名がみえ、寛永二年(一六二五)知行宛行状で「加村弐百弐拾石」が旗本永見重成に与えられている。


加村
かむら

[現在地名]植木町米塚よねつか

慈恩寺じおんじ村の東にあり、東は合志こうし小野崎おのざき(現菊池郡七城町)、北は平島ひらしま村に接する。中央を合志川が貫流する川沿いの底平地で、来民くたみ町道から分れた隈府わいふ町道が通る。天文一二年(一五四三)一〇月一六日の五条鑑量本地坪付(五条家文書)に「加村一所 三町」とあり、年未詳の五条家知行分坪付(同文書)には「かむら三町」がある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では「賀村」と記し、田二二町七反四畝余・畠一一町四反二畝余、分米三四一石五斗余、名請人延数二七人。


加村
かむら

賀村とも書く。江戸時代の上加村・下加村一帯に比定される。現北埼玉郡川里かわさと村の雲祥うんしよう寺に伝存する雲版の明徳五年(一三九四)五月二五日付銘文に「武州賀村県医王山東光禅寺常住 住持比丘雪庵希明置之」とみえ、本来この雲版は賀村の医王山東光寺(廃絶)のものであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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