光照寺(読み)こうしようじ

日本歴史地名大系 「光照寺」の解説

光照寺
こうしようじ

[現在地名]沼隈町中山南 上森迫

山南さんな川東方の山際にあり、金明山と号し、浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来。近世は近江本行ほんぎよう(現滋賀県神崎郡能登川町)の末寺であった。

寺伝によると鎌倉に最宝さいほう寺を創建した親鸞の法弟明光が西国布教を志して建保四年(一二一六)備後に来て当地森迫もりざこ一宇を建立、光照寺と名付けて布教に務めた。明光とともに山南に来た三人の僧のうち新屋は高田郡からのち三次みよしに移った照林しようりん坊を、苅屋は神辺かんなべ(現深安郡神辺町)光善こうぜん(現福山市寺町に移転)を、また弘角は最善さいぜん(現福山市寺町に移転)を建立。寄力および随身の六名もそれぞれ寺を建立して布教の基礎を固めたとするが、当寺の開基は鎌倉末期の明光坊了円の法弟慶円とするのが正しいようである(「顕名抄」奥書、「存覚一期記」)。しかし当寺が西国布教の本拠地であったことは確かとされる。


光照寺
こうしようじ

[現在地名]西都市鹿野田

鹿野田かのだの南、都於郡とのこおり町近くの原口に建つ。恵日山称名院と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。創建の年は明らかではないが、連阿による中興と伝え、伊東氏支配の時代に栄えた。寺号は伊東祐国の諡号であり、過去帳(寺蔵)には「光照寺殿重阿弥陀仏尊位文明十七年六月廿日」とあることから、祐国の菩提寺として崇拝されたものと思われる。祐国は島津氏と飫肥おびをめぐって戦い、文明一七年(一四八五)六月二一日、楠原くすばる(現日南市)の戦いで討死、このときともに討死したのは六八名であった(日向記)。墓地には祐国の墓と思われる石塔が残っている。なお永禄年間(一五五八―七〇)のものとみられる落合兼朝覚書(旧記雑録)では祐国の建立と伝えている。


光照寺
こうしようじ

[現在地名]氷見市朝日本町

多胡山と号し、本尊阿弥陀如来。浄土真宗本願寺派。往時真言宗で加賀木越きごし(現石川県金沢市)にあり、冨樫武通次男が出家、慶信と号して入寺。永仁三年(一二九五)に浄土真宗に帰依したという(貞享二年寺社由緒書上)。のち射水いみず下田子しもたこ(多胡)に移る。多胡には城があり、永正一七年(一五二〇)の越後守護代長尾為景の越中侵攻では、為景が「多胡之様体見度候」といい、長尾勢にとって重要地であった(同年一二月二四日「長尾為景書状」上杉家文書)


光照寺
こうしようじ

[現在地名]武生市片屋町

片屋かたやのほぼ中央にある。帰命山と号し、真宗仏光寺派。本尊阿弥陀如来。草創時期は不詳であるが、当寺由緒書は、開基を如導の弟子で横越よこごし(現福井県鯖江市)証誠しようじよう寺の開基道性とし、「三門徒法脈」は如導の四男正通とする。天正四年(一五七六)二月二一日付の前田利家下代井上忠右衛門の除地状(当寺文書)に片屋村光照寺が記される。


光照寺
こうしようじ

[現在地名]堺市金岡町

窪田くぼた池の東方にある。真宗大谷派。糸薄山と号し、本尊は阿弥陀如来。年代は不明だが、恵心僧都源信の開創と伝える。承応三年(一六五四)の寺蔵の光照寺来歴によるともと天台宗で、本願寺三世覚如の時帰依、真宗となった。八世蓮如も当寺に逗留したという。当寺は金田かなた村に成立した寺内の中心寺院の一であった。


光照寺
こうしようじ

[現在地名]岩内郡岩内町字高台

慧日山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。一八五八年(安政五年)六月広如が胆振国長万部おしやまんべ村に本願寺掛所として一宇を建立、明治二年(一八六九)一二月光照寺と称し、同一二年一二月岩内のたちばな町に移転(寺院明細書)。真宗大谷派本願寺末僧の超然の開基という。同二三年九月の大火類焼


光照寺
こうしようじ

[現在地名]鎌倉市山ノ内

だい山の東麓、字宮下小路みやしたこうじにある。時宗。西台山英月院と号する。開山一向、開基未詳。本尊阿弥陀如来像は正長二年(一四二九)以前の造立といわれる(胎内修理銘)。もと藤沢清浄光ふじさわしようじようこう寺末。客仏として明治五年(一八七二)廃寺の台の東渓とうけい院旧蔵釈迦如来坐像があり、山門も同院からの移築という。


光照寺
こうしようじ

[現在地名]浦河郡浦河町常盤町

浦河市街の中央部、ウロコベツ川の西岸にある。日高山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。当寺は明治一五年(一八八二)札幌区曹洞宗宗務支局の派出権講義である開融が地方巡教の際、当地の信徒と協議し堂宇を建立したことに始まる。同一八年には竜天堂を建立して八大竜王を奉安した。同三〇年五月、札幌中央ちゆうおう寺住職禅外万宗を勧請開山とし、大透融禅(開融)が開基住職となって一寺となる。


光照寺
こうしようじ

[現在地名]三和町恩名

東仁連ひがしにれ川東岸の台地西端に位置。境内には杉林・枝垂柳の巨木が茂る。寺領五石。無量山持明じみよう院と号し真言宗豊山派。本尊不動明王。境内墓地には鎌倉期末の五輪塔の空輪・風輪・火輪各一のほか延文三年(一三五八)一〇月以降の一六枚の板碑と破片一二枚が確認される。


光照寺
こうしようじ

[現在地名]笠間市笠間

はだか(花香町)の南東の堀込ほりごめにある。笠間山城西院と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。光照寺縁起によれば、笠間の豪族庄司基員の子が親鸞の弟子となって教名坊実念と称し、当寺を開基という。


光照寺
こうしようじ

[現在地名]南区星崎二丁目

摂取山と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、鎌倉前期の尾張の武士山田重忠の創建。当初は高田宗で顕正寺と号した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「光照寺」の解説

光照寺

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「光照寺」の解説

光照寺

山梨県甲斐市にある寺院。戦国武将、武田信虎が再建したとされる薬師堂があり、国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の光照寺の言及

【沼隈[町]】より

…南東部の阿伏兎(あぶと)岬は,瀬戸内海の景勝地で阿伏兎観音がある。中山南(なかさんな)の光照寺は中世,真宗の西国布教の拠点であった。沼隈踊(はね踊)は県の無形民俗文化財。…

※「光照寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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