加藤光泰(読み)かとうみつやす

改訂新版 世界大百科事典 「加藤光泰」の意味・わかりやすい解説

加藤光泰 (かとうみつやす)
生没年:1537-93(天文6-文禄2)

安土桃山時代武将権兵衛景泰の子。美濃の人。初め斎藤竜興に属し,その滅亡後は織田信長に,1570年(元亀1)ころより豊臣秀吉に仕える。82年(天正10),山崎の戦の功により丹波周山城主。のち近江貝津・高島城主,美濃大垣城主等を経,一時秀吉の勘気を被ったが許されて,90年甲斐24万石をあてがわれ,府中に築城してここに住んだ。文禄の役で朝鮮出陣,帰国途上に死亡
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朝日日本歴史人物事典 「加藤光泰」の解説

加藤光泰

没年:文禄2.8.29(1593.9.24)
生年天文6(1537)
安土桃山時代の武将。通称は作内。遠江守。美濃国(岐阜県)斎藤氏の旧臣浪人ののち近江長浜城主時代の羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。功により播磨・丹波・近江などの城主を歴任,蔵入領の代官をも務めた。蔵入地に無断で給人を置いたりしたため,一時秀吉の勘気を受け羽柴(豊臣)秀長に預けられたが,赦免後従五位下,遠江守に叙任。小田原攻めののち,甲斐甲府城主24万石。秀吉文書に「作内ためには,秀吉日本国の事は申すに及ばず,唐国迄仰せ付られ候心に候か」とあるほど信頼されていた。文禄1(1592)年の朝鮮出兵で渡海したが,帰国の途中西生浦で病死。毒殺説もある。

(二木謙一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤光泰」の解説

加藤光泰 かとう-みつやす

1537-1593 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)6年生まれ。斎藤竜興(たつおき)につかえ,その滅亡後は豊臣秀吉に属す。山崎の戦いに功をあげ,丹波周山城(京都府)城主,天正(てんしょう)18年(1590)甲斐(かい)甲府城主となった。文禄(ぶんろく)の役で朝鮮に出陣,帰国途中の文禄2年8月29日病死。57歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。通称は権兵衛。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加藤光泰」の意味・わかりやすい解説

加藤光泰
かとうみつやす

[生]天文6(1537)
[没]文禄2(1593).8.29. 朝鮮,西生浦
安土桃山時代の武将。斎藤龍興の家臣景泰の子。豊臣秀吉に仕え,幾多の移封を経て,天正 18 (1590) 年,甲斐 24万石を領した。甲府城主。文禄の役 (→文禄・慶長の役 ) に参陣し,陣没した。

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世界大百科事典(旧版)内の加藤光泰の言及

【甲斐国】より

…まもなく本能寺の変後起こった一揆により秀隆が誅滅されたあと,甲斐をねらう後北条氏との係争に勝利を得て入国した徳川家康は,平岩親吉を甲府城代に任命した。90年家康が関東に移されると羽柴秀勝が封ぜられ,翌年には加藤光泰にかわった。さきに家康の命をうけて親吉により着手されていた甲府築城の工事は光泰にうけつがれ,さらに93年(文禄2)受封,入国した浅野長政・幸長(よしなが)父子の時代に完成,城下町甲府の形成も進められた。…

※「加藤光泰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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