加藤咄堂(読み)かとうとつどう

精選版 日本国語大辞典 「加藤咄堂」の意味・読み・例文・類語

かとう‐とつどう【加藤咄堂】

  1. 教化運動家。仏教学者。本名、熊一郎。京都出身。仏教を普及させ、社会教化に尽くす。著「修養論」「日本風俗志」など。明治三~昭和二四年(一八七〇‐一九四九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤咄堂」の意味・わかりやすい解説

加藤咄堂
かとうとつどう
(1870―1949)

明治~昭和時代の仏教布教家。本名は熊一郎。京都に生まれ、小学校代用教員を経て20歳で上京、英吉利(イギリス)法律学校(中央大学の前身)で聴講、苦学した。岩野泡鳴(いわのほうめい)らと文芸活動もしたが、築地(つきじ)本願寺内積徳教校(しゃくとくきょうこう)の教師となってから仏教を学び、大内青巒(おおうちせいらん)と交わり『明教新誌(めいきょうしんし)』の主筆となる。麻布(あざぶ)の曹洞(そうとう)宗中学林の教師などをも務め、上宮(じょうぐう)教会に加わって講演、また護教書院や精神社を創設して文書活動をした。大正末期には斎藤実(さいとうまこと)らと中央教化団体連合会を結成し、講演、著述による教化に努めた。昭和24年4月に没し、東京・赤羽(あかばね)の静勝寺(じょうしょうじ)に葬られた。著書には『修養大講座』14巻、『維摩経(ゆいまぎょう)大講座』2巻、『大乗起信論(だいじょうきしんろん)講話』、『碧巌録(へきがんろく)大講座』15巻、『信仰実話全集』24巻、『曹洞宗説教大全』、『爐辺禅話(ろへんぜんわ)』、『雄弁法(ゆうべんほう)講話』など60余部がある。

[櫻井秀雄 2017年6月20日]

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20世紀日本人名事典 「加藤咄堂」の解説

加藤 咄堂
カトウ トツドウ

明治〜昭和期の仏教学者,著述家,教化運動家



生年
明治3年11月2日(1870年)

没年
昭和24(1949)年4月2日

出生地
京都府亀岡

本名
加藤 熊一郎

学歴〔年〕
英吉利法律学校(現・中大)卒

主な受賞名〔年〕
社会教化功労者賞〔大正13年〕,文部省表彰〔昭和3年〕

経歴
早くから仏教学を修め、仏教の民衆教化を念願して全国を遊説する。明治35年「日本宗教風俗志」を刊行、大正6年から7年にかけて「日本風俗志」全3冊を刊行するなど、著述の面でも活躍。明治32年以降は新仏教運動に参加し、東洋大学、日本大学などで講じた。他の著書に「朝思暮思」「修養論」「運命論」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤咄堂」の解説

加藤咄堂 かとう-とつどう

1870-1949 明治-昭和時代の仏教学者,布教家。
明治3年11月2日生まれ。島田蕃根らに師事して明治30年代に太子信仰の上宮(じょうぐう)教会の講師となる。雑誌「新修養」(のち「精神」),「こころ」を主宰。昭和3年中央教化団体連合会の結成にくわわり,講演と著述で仏教の大衆化につとめた。昭和24年4月2日死去。80歳。京都出身。英吉利法律学校(現中央大)卒。本名は熊一郎。著作に「大乗起信論講話」「維摩経(ゆいまぎょう)講話」など。

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367日誕生日大事典 「加藤咄堂」の解説

加藤 咄堂 (かとう とつどう)

生年月日:1870年11月2日
明治時代-昭和時代の仏教学者;布教家
1949年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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