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大内青巒 おおうち

美術人名辞典の解説

大内青巒

宗教哲学家。仙台藩士。名は退、字は巻之、号は藹々・露堂、青巒は通称。禅を原担山に、漢籍大槻磐渓に学ぶ。明治初年大谷光尊の左右に侍してその学事を監督し、余暇に新聞の発行、印刷業を起こし学校を創立。大正3年(1914)東洋大学長となる。特に雄弁で有名。著書多数。大正7年(1918)寂、74才。

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デジタル大辞泉の解説

おおうち‐せいらん〔おほうち‐〕【大内青巒】

[1845~1918]仏教学者。宮城の生まれ。尚学舎などを創立し、曙新聞(あけぼのしんぶん)・明教新誌・江湖新聞刊行。また、築地訓育院を設立し、社会事業にも尽力した。のち東洋大学長。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大内青巒 おおうち-せいらん

1845-1918 明治-大正時代の仏教学者。
弘化(こうか)2年4月17日生まれ。曹洞(そうとう)宗の僧照庵のもとで出家。のち原坦山,大槻磐渓(ばんけい)にまなぶ。維新後,西本願寺法主大谷光尊の侍講となる。のち還俗(げんぞく)して在家主義をとなえ,明治7年「報四叢談(ほうしそうだん)」,翌年「明教新誌」などを創刊し,言論活動を展開した。大正3年東洋大学長。大正7年12月16日死去。74歳。陸奥(むつ)仙台出身。名は退(まかる)。字(あざな)は巻之。号は藹々,露堂。

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大辞林 第三版の解説

おおうちせいらん【大内青巒】

1845~1918) 仏教家。仙台の人。雑誌「報四叢談」、新聞「明教新誌」を発行、また尊皇奉仏大同団を組織するなど、明治時代の仏教界を指導。著「碧巌集講話」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大内青巒
おおうちせいらん

[生]弘化2(1845).4.17. 仙台
[没]1918.12.16. 永平寺
明治の仏教革新運動家。仙台の人。曹洞宗の僧となったが,のち還俗し,神道からの仏教の独立分離,教団仏教に対し居士仏教の提唱などに活躍した。著書に『原人論講義』『尊皇奉仏論』,編著に『曹洞教会修証義』などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大内青巒
おおうちせいらん
(1845―1918)

明治時代の仏教思想家、運動家。仙台の人。弘化(こうか)2年4月17日生まれ。幼名は退(まかる)、字(あざな)は巻之(かんし)、号は藹々翁(あいあいおう)、藹々居士(あいあいこじ)、謁々露堂(かつかつろどう)。初め漢学を学び、のち禅門に入り泥牛(でいぎゅう)と改名、福田行誡(ふくだぎょうかい)、原坦山(はらたんざん)に仏教を学んだ。『駁尼去来問答(ばくにこらいもんどう)』を著して名声を得、浄土真宗本願寺法主(ほっしゅ)大谷光尊(こうそん)の侍講となる。1874年(明治7)『報四叢談(ほうしそうだん)』、翌1875年『明教新誌(めいきょうしんし)』を発行して文書伝道に努めた。また1879年には盲聾唖者(もうろうあしゃ)の築地(つきじ)訓育院高等普通学校の設立など社会事業にも尽力。1889年には政治団体の尊皇奉仏大同団を組織するほか、聖徳太子を尊崇して上宮(じょうぐう)教会を設立した。また曹洞扶宗会(そうとうふしゅうかい)などを結成し、『在家化導修証義(ざいけけどうしゅしょうぎ)』を編集して在家主義の仏教を主張し、明治仏教界、教育・出版界に影響を与えた。著書に『碧巌集(へきがんしゅう)講話』などがある。大正7年12月16日示寂。[金田諦応]

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