斎藤実(読み)サイトウマコト

デジタル大辞泉 「斎藤実」の意味・読み・例文・類語

さいとう‐まこと【斎藤実】

[1858~1936]軍人政治家。海軍大将岩手の生まれ。海相・朝鮮総督枢密顧問官歴任五・一五事件のあと挙国一致内閣を組織したが、帝人事件によって総辞職二・二六事件で暗殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「斎藤実」の意味・読み・例文・類語

さいとう‐まこと【斎藤実】

  1. 海軍大将、政治家。子爵。陸奥水沢藩(岩手県)出身。海軍大臣、朝鮮総督、枢密顧問官を歴任。五・一五事件の後、首相となり、挙国一致内閣を組織したが帝人事件で辞任。のち内相。二・二六事件で暗殺された。安政五~昭和一一年(一八五八‐一九三六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤実」の意味・わかりやすい解説

斎藤実
さいとうまこと
(1858―1936)

明治・大正・昭和期の海軍軍人、大将。政治家。安政(あんせい)5年10月27日陸奥(むつ)国(岩手県)水沢藩士斎藤耕平の長男として生まれる。1879年(明治12)海軍兵学校卒業。1884年にアメリカ留学、アメリカ公使館付武官に任ぜられた。1888年帰国後、海軍参謀本部、海軍省に勤務、ついで侍従武官秋津洲(あきつしま)・厳島(いつくしま)艦長を務めた。この間1892年には仁礼景範(にれかげのり)(海相)の長女と結婚。1898年第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣において山本権兵衛(やまもとごんべえ)海軍大臣の下で次官に就任、以後7年間同海相の下で次官を務めた。1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の海軍大臣に就任以来5代の内閣の下で海相を務め、日露戦後の海軍軍備拡張を推進した。1914年(大正3)シーメンス事件で海相を辞任、予備役に編入された。1919年8月現役に復して朝鮮総督に就任。三・一独立運動にみられた朝鮮民族解放運動の高揚の鎮静化を図って、朝鮮統治政策を「武断政治」からいわゆる「文治政治」へと転換させた。1925年子爵。1927年(昭和2)病気のため朝鮮総督を辞任。その直前にはジュネーブ軍縮会議首席全権を務めた。総督辞任後1929年まで枢密顧問官、同年ふたたび朝鮮総督に就任したが、1931年辞任。1932年五・一五事件で瓦解(がかい)した犬養毅(いぬかいつよし)内閣の後を継いで、「挙国一致内閣」を組織した。斎藤内閣は中間内閣といわれたが、「満州国」を承認し国際連盟から脱退することによって、かえって日本の国際的孤立化を進めてしまった。1934年7月帝人事件で総辞職。1935年12月内大臣に就任。昭和11年2月、二・二六事件で暗殺された。

[芳井研一]

『『子爵斎藤実伝』全4巻(1941~1942・斎藤子爵記念会)』『有竹修二著、細川隆元監修『日本宰相列伝14 斎藤実』(1986・時事通信社)』『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書21 斎藤実』(2006・ゆまに書房)』


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改訂新版 世界大百科事典 「斎藤実」の意味・わかりやすい解説

斎藤実 (さいとうまこと)
生没年:1858-1936(安政5-昭和11)

明治・大正・昭和期の海軍軍人,政治家。水沢藩(現,岩手県)出身。幼名富五郎。後藤新平とは幼な友だち。1879年海軍兵学寮を卒業。84年軍事部出仕としてアメリカに留学し,公使館付武官を兼ねる。海軍の先輩仁礼景範(にれかげのり)の女婿となり,日清戦争では侍従武官,軍艦和泉の副長を務める。98年第2次山県有朋内閣の山本権兵衛海相により海軍次官に抜擢され,日露戦争後にいたる間,山本を補佐して海軍軍政にあたった。この間に少将から中将に進む。日露戦争後,第1次西園寺公望内閣から第1次山本内閣にいたる5内閣の海相に8年余にわたり留任し,八八艦隊の実現を目標として海軍軍備の拡充に努める。1907年男爵,12年大将となったが,シーメンス事件の責任をとって予備役に退いた。19年原敬内閣により朝鮮総督に起用され,いわゆる文治政治のもとに三・一運動後の朝鮮統治にあたった。25年子爵,27年ジュネーブ軍縮会議全権に任じられ,帰国後朝鮮総督を辞任,枢密顧問官となったが,29-31年ふたたび朝鮮総督に就任した。32年五・一五事件後,首相となり挙国一致内閣を組織し,非常時のもとで〈時局匡救〉にあたるとともに,満州国承認,国際連盟脱退などでは軍部に追随した。しかし5相会議では荒木貞夫陸相の対ソ予防戦争論を抑え,軍人出身ではあるが中間的・現状維持派的な対応を示した。33年7月帝人事件により内閣総辞職し,35年12月牧野伸顕の後任の内大臣となったが,二・二六事件で坂井直中尉の率いる部隊に襲撃され,殺害された。
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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「斎藤実」の解説

斎藤 実
サイトウ マコト


肩書
第30代首相,内大臣,海相

生年月日
安政5年10月27日(1858年)

出生地
陸奥国水沢(岩手県水沢市)

学歴
海兵(第6期)〔明治12年〕卒

経歴
明治17年海軍中尉としてアメリカに派遣され、21年帰国。その後、軍政、とくに行政畑を歩き、のち秋津洲・厳島各艦長、31年海軍次官を経て、39年第1次西園寺内閣の海相に就任、9年間在任。この間大正元年海軍大将、3年シーメンス事件で予備役編入。8年〜昭和2年と4〜6年朝鮮総督。昭和2年ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官をつとめた。7年の5.15事件後、“挙国挙党内閣”を組織して反平沼騏一郎の体制を築くが、9年帝人事件にまきこまれ総辞職。翌10年内大臣。11年2.26事件で暗殺された。

没年月日
昭和11年2月26日

家族
妻=斎藤 春子

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朝日日本歴史人物事典 「斎藤実」の解説

斎藤実

没年:昭和11.2.26(1936)
生年:安政5.10.27(1858.12.2)
明治大正昭和期の海軍軍人,政治家。陸奥(岩手県)水沢藩士の子。明治12(1879)年海軍兵学校卒業。17年アメリカに留学,同国初代の公使館付武官となる。帰国後,海軍参謀本部出仕,常備艦隊参謀などを経て,日清戦争中は侍従武官,のち富士副長,「秋津洲」「厳島」各艦長を歴任し,31年11月より7年余山本権兵衛海相の下に海軍次官,39年1月より8年余5つの内閣で海相を務め海軍拡張を推進した。大正3(1914)年シーメンス事件で海相辞任,予備役に編入されたが,8年原敬内閣により朝鮮総督に起用され,3・1運動後の民族運動が高揚する朝鮮に「文化政治」「内鮮人同化政策」という統治方針で臨んだ。昭和2(1927)年ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員,同年12月総督辞任,枢密顧問官となるが4年から6年にかけて総督に再任。7年5・15事件後,元老西園寺公望の推薦で政党・軍・官僚勢力均衡の中間的挙国一致内閣を組織し,満州国承認,国際連盟脱退を行ったが,帝人事件で総辞職。10年内大臣就任の翌年2・26事件で,「現状維持派」の中心として殺害された。<参考文献>斎藤子爵記念会『子爵斎藤実伝』,「斎藤実関係文書」(国立国会図書館憲政資料室)

(小林和幸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「斎藤実」の意味・わかりやすい解説

斎藤実【さいとうまこと】

明治から昭和初期の軍人,海軍大将,政治家。陸奥(むつ)仙台藩領水沢の生れ。日露戦争の際海軍次官として山本権兵衛海軍大臣を補佐。1906年から8年余海軍大臣として軍備拡張に努めた。1919年朝鮮総督となり,いわゆる文治主義によって三・一独立運動後の朝鮮植民地支配を行った。1927年ジュネーブ軍縮会議の全権を務め,1932年には五・一五事件を受けて組閣。1935年内大臣となったが,二・二六事件で射殺された。→斎藤実内閣
→関連項目東方会議

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20世紀日本人名事典 「斎藤実」の解説

斎藤 実
サイトウ マコト

明治・大正期の政治家,海軍大将 首相;内大臣;海相。



生年
安政5年10月27日(1858年)

没年
昭和11(1936)年2月26日

出生地
陸奥国水沢(岩手県水沢市)

学歴〔年〕
海兵(第6期)〔明治12年〕卒

経歴
明治17年海軍中尉としてアメリカに派遣され、21年帰国。その後、軍政、とくに行政畑を歩き、のち秋津洲・厳島各艦長、31年海軍次官を経て、39年第1次西園寺内閣の海相に就任、9年間在任。この間大正元年海軍大将、3年シーメンス事件で予備役編入。8年〜昭和2年と4〜6年朝鮮総督。昭和2年ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官を務めた。7年の5.15事件後、“挙国挙党内閣”を組織して反平沼騏一郎の体制を築くが、9年帝人事件にまきこまれ総辞職。翌10年内大臣。11年2.26事件で暗殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斎藤実」の意味・わかりやすい解説

斎藤実
さいとうまこと

[生]安政5(1858).10.27. 陸奥,水沢
[没]1936.2.26. 東京
海軍軍人,政治家。父は水沢藩士。 1879年に海軍兵学校を卒業,少尉補に任官。 84年アメリカに留学,86~88年西郷従道海相に随行してヨーロッパに渡った。 98~1900年海軍次官。のち一時官名変更により海軍総務長官となり,06~14年海相。 12年に大将に昇進。 15年,三・一事件後に朝鮮総督となり,文治政策をとった。 27年ジュネーブ会議全権委員をつとめ,帰国して朝鮮総督を辞任し,枢密顧問官。 25年子爵。 29~31年再び朝鮮総督。 32~34年首相。 34年内大臣となったが,青年将校から親英米派の重臣とみられ,二・二六事件で暗殺された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「斎藤実」の解説

斎藤実
さいとうまこと

1858.10.27~1936.2.26

明治~昭和前期の海軍軍人・政治家。陸奥国胆沢郡生れ。1879年(明治12)海軍兵学校卒。初代アメリカ公使館付武官や艦隊・海軍参謀部勤務のあと,98年に大佐で厳島艦長のとき海軍次官に抜擢された。日露戦争終了まで7年間(一時期海軍総務長官と改称)にわたり山本権兵衛海相を補佐。1906年山本のあとを継ぎ,5代の内閣で海相を歴任。12年(大正元)大将に昇進。シーメンス事件で14年辞職。19~27年(大正8~昭和2)・29~31年の2期にわたり朝鮮総督。5・15事件のあと32年5月~34年7月挙国一致内閣の首相となる。35年内大臣に就任したが,翌年2・26事件で反乱軍に殺害された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤実」の解説

斎藤実 さいとう-まこと

1858-1936 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。
安政5年10月27日生まれ。第1次西園寺内閣以後5代の内閣の海相をつとめる。大正元年海軍大将。8年朝鮮総督。昭和7年の五・一五事件後に首相となる。満州国を承認し,帝人事件で退陣。10年内大臣。昭和11年2月26日クーデターをおこした陸軍将校により殺された(二・二六事件)。79歳。陸奥(むつ)水沢(岩手県)出身。海軍兵学校卒。

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旺文社日本史事典 三訂版 「斎藤実」の解説

斎藤実
さいとうまこと

1858〜1936
明治〜昭和期の軍人・政治家
海軍大将。陸奥(岩手県)の生まれ。第1次西園寺公望 (きんもち) 内閣から連続して5内閣の海相を歴任。1919年朝鮮総督,'27年ジュネーヴ海軍軍縮会議全権となる。'32年,五・一五事件後に挙国一致内閣を組織。のち内大臣となり,二・二六事件で暗殺された。

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367日誕生日大事典 「斎藤実」の解説

斎藤 実 (さいとう まこと)

生年月日:1858年10月27日
明治時代;大正時代の海軍軍人;政治家。海相;内閣総理大臣
1936年没

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世界大百科事典(旧版)内の斎藤実の言及

【三・一独立運動】より

…制限つきではあったが,朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤は,非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむという朝鮮民族の分断を策して〈文化政治〉を唱えたが,三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。…

※「斎藤実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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