明治・大正・昭和期の海軍軍人、大将。政治家。安政(あんせい)5年10月27日陸奥(むつ)国(岩手県)水沢藩士斎藤耕平の長男として生まれる。1879年(明治12)海軍兵学校卒業。1884年にアメリカ留学、アメリカ公使館付武官に任ぜられた。1888年帰国後、海軍参謀本部、海軍省に勤務、ついで侍従武官、秋津洲(あきつしま)・厳島(いつくしま)艦長を務めた。この間1892年には仁礼景範(にれかげのり)(海相)の長女と結婚。1898年第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣において山本権兵衛(やまもとごんべえ)海軍大臣の下で次官に就任、以後7年間同海相の下で次官を務めた。1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の海軍大臣に就任以来5代の内閣の下で海相を務め、日露戦後の海軍軍備拡張を推進した。1914年(大正3)シーメンス事件で海相を辞任、予備役に編入された。1919年8月現役に復して朝鮮総督に就任。三・一独立運動にみられた朝鮮民族解放運動の高揚の鎮静化を図って、朝鮮統治政策を「武断政治」からいわゆる「文治政治」へと転換させた。1925年子爵。1927年(昭和2)病気のため朝鮮総督を辞任。その直前にはジュネーブ軍縮会議首席全権を務めた。総督辞任後1929年まで枢密顧問官、同年ふたたび朝鮮総督に就任したが、1931年辞任。1932年五・一五事件で瓦解(がかい)した犬養毅(いぬかいつよし)内閣の後を継いで、「挙国一致内閣」を組織した。斎藤内閣は中間内閣といわれたが、「満州国」を承認し国際連盟から脱退することによって、かえって日本の国際的孤立化を進めてしまった。1934年7月帝人事件で総辞職。1935年12月内大臣に就任。昭和11年2月、二・二六事件で暗殺された。
[芳井研一]
『『子爵斎藤実伝』全4巻(1941~1942・斎藤子爵記念会)』▽『有竹修二著、細川隆元監修『日本宰相列伝14 斎藤実』(1986・時事通信社)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書21 斎藤実』(2006・ゆまに書房)』
明治・大正・昭和期の海軍軍人,政治家。水沢藩(現,岩手県)出身。幼名富五郎。後藤新平とは幼な友だち。1879年海軍兵学寮を卒業。84年軍事部出仕としてアメリカに留学し,公使館付武官を兼ねる。海軍の先輩仁礼景範(にれかげのり)の女婿となり,日清戦争では侍従武官,軍艦和泉の副長を務める。98年第2次山県有朋内閣の山本権兵衛海相により海軍次官に抜擢され,日露戦争後にいたる間,山本を補佐して海軍軍政にあたった。この間に少将から中将に進む。日露戦争後,第1次西園寺公望内閣から第1次山本内閣にいたる5内閣の海相に8年余にわたり留任し,八八艦隊の実現を目標として海軍軍備の拡充に努める。1907年男爵,12年大将となったが,シーメンス事件の責任をとって予備役に退いた。19年原敬内閣により朝鮮総督に起用され,いわゆる文治政治のもとに三・一運動後の朝鮮統治にあたった。25年子爵,27年ジュネーブ軍縮会議全権に任じられ,帰国後朝鮮総督を辞任,枢密顧問官となったが,29-31年ふたたび朝鮮総督に就任した。32年五・一五事件後,首相となり挙国一致内閣を組織し,非常時のもとで〈時局匡救〉にあたるとともに,満州国承認,国際連盟脱退などでは軍部に追随した。しかし5相会議では荒木貞夫陸相の対ソ予防戦争論を抑え,軍人出身ではあるが中間的・現状維持派的な対応を示した。33年7月帝人事件により内閣総辞職し,35年12月牧野伸顕の後任の内大臣となったが,二・二六事件で坂井直中尉の率いる部隊に襲撃され,殺害された。
執筆者:江口 圭一
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(小林和幸)
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明治・大正期の政治家,海軍大将 首相;内大臣;海相。
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1858.10.27~1936.2.26
明治~昭和前期の海軍軍人・政治家。陸奥国胆沢郡生れ。1879年(明治12)海軍兵学校卒。初代アメリカ公使館付武官や艦隊・海軍参謀部勤務のあと,98年に大佐で厳島艦長のとき海軍次官に抜擢された。日露戦争終了まで7年間(一時期海軍総務長官と改称)にわたり山本権兵衛海相を補佐。1906年山本のあとを継ぎ,5代の内閣で海相を歴任。12年(大正元)大将に昇進。シーメンス事件で14年辞職。19~27年(大正8~昭和2)・29~31年の2期にわたり朝鮮総督。5・15事件のあと32年5月~34年7月挙国一致内閣の首相となる。35年内大臣に就任したが,翌年2・26事件で反乱軍に殺害された。
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…制限つきではあったが,朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤は,非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむという朝鮮民族の分断を策して〈文化政治〉を唱えたが,三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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