日本歴史地名大系 「加藤村」の解説 加藤村かとうむら 千葉県:富津市加藤村[現在地名]富津市加藤横嶺(よこみね)村の北に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六六一石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高六八一石余で家数四三、旗本白須・河内二氏の相給。天保一〇年(一八三九)から佐貫藩領(阿部家文書)。旧高旧領取調帳では河内領五六石余のほかは佐貫藩領六〇九石余。元禄一六年(一七〇三)一一月二三日の地震では御林が崩れ、田地に砂が押込んだ(楽只堂年録)。当時幕府領であった。寛延二年(一七四九)の村明細帳(椙山家文書)によれば、寛永二年(一六二五)検地が行われ、家数四五のうち本百姓四〇、人数二五五、男牛一五・女馬八、威鉄砲三。 加藤村かとうむら 埼玉県:北葛飾郡吉川町加藤村[現在地名]吉川町加藤吉屋(よしや)村の南に位置し、村の東を江戸川が流れ、その堤外を庄内古(しようないふる)川が流れる。村名は加藤五郎左衛門に由来するが、同氏は岩付太田氏に仕えたのち浪人となり、慶長期(一五九六―一六一五)当地の開発に当たったといわれる。元禄期(一六八八―一七〇四)の検地で皿沼(さらぬま)村・鹿見塚(ししみづか)村を分村したと伝える。江戸川に河岸場と作渡場があり、また同川沿いの流作場は延享元年(一七四四)・宝暦四年(一七五四)・明和九年(一七七二)に検地が実施されている(以上「風土記稿」)。 加藤村かとうむら 山形県:東田川郡三川町加藤村[現在地名]三川町加藤小尺(しようしやく)村の南、菱沼(ひしぬま)村の東の平坦地に位置。四ヵ村(よんヵそん)通の一村。村名は開発者加藤与右衛門の姓にちなむという。同氏は肥後国熊本城(現熊本市)城主加藤清正の家臣で、諸国を流浪して庄内に入り、当地で新田を開発したといわれる(三川町史)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に賀藤村とみえ、高一一四石余。寛永元年庄内高辻帳には「か藤村」とみえ、高一四三石余。 加藤村かとうむら 茨城県:筑波郡谷和原村加藤村[現在地名]谷和原村加藤古川(ふるかわ)村の西に所在。江戸初期には加藤新田と称した(新編常陸国誌)が、「寛文朱印留」には加藤村とあって下総佐倉藩大給松平氏領。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by