勝瑞城跡(読み)しようずいじようあと

日本歴史地名大系 「勝瑞城跡」の解説

勝瑞城跡
しようずいじようあと

[現在地名]藍住町勝瑞

勝瑞地区の中央部よりやや北寄りに位置する中世の平城跡。吉野川の本支流に囲まれた低湿地帯の中央部に位置し、周辺の標高は約二・五メートル程度である。

承久三年(一二二一)に小笠原長清の子長経が守護として阿波に入り、井隈いのくま庄に守護所を置いたことが勝瑞城の始まりといわれているが(徳島県史)、小笠原氏の守護所の所在地については諸説があり、確定されていない。当城の築城年代は諸説あるがいずれも確証がない。一五世紀の中期以降、遅くとも細川成之(久之)の代までに守護所が秋月あきづき(現土成町)から勝瑞へ移り、以後天正一〇年(一五八二)に土佐の長宗我部元親に攻め落されるまで細川氏とその後を継承した三好氏本拠として栄えた。当城への移転以前、貞治六年(一三六七)守護細川頼之は室町幕府の管領となって上洛した。その京都の管領屋形に対して、阿波守護および守護所は阿波屋形または下屋形ともよばれた。応仁・文明の乱後、管領細川政元の迎えた摂政九条政基の子澄之と、阿波屋形の細川義春(之勝)の子澄元の二人の養子の間で起こった細川宗家の家督を巡る争いに端を発した両細川の乱は天文二一年(一五五二)に氏綱が宗家家督を継承するまで断続的に続き、細川家の勢力が衰えるきっかけとなった。

天文二二年、勝瑞城では三好義賢(之虎・之康・実休)が守護細川持隆(持重)を殺害し、実権を奪った。この事件については天文二一年とする説もある。永禄三年(一五六〇)義賢が兄三好長慶の命により河内高屋たかや(現大阪府羽曳野市)に入ったあとは(細川両家記)、被官篠原長房が守護細川真之の補佐となり、同五年の義賢戦死後は「新加制式」を定めるなど、分国支配の中心的役割を果した(「三好別記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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