日本大百科全書(ニッポニカ) 「三好氏」の意味・わかりやすい解説
三好氏
みよしうじ
阿波国(あわのくに)三好郡(徳島県三好市、三好郡東みよし町)を本拠にした武将の氏。阿波小笠原(おがさわら)氏の一族。三好氏を名のるのは南北朝期の三好義長(よしなが)のころである。
三好義長は信濃(しなの)の小笠原貞宗(さだむね)の孫の京都の小笠原長興(ながおき)の子。母が阿波の小笠原長隆の娘であった縁で、長隆の養子となり、三好郡に住し、三好氏を名のった。南北朝期以後、阿波国の守護細川氏の被官となり、その下で勢力を拡大し、戦国期には細川氏を擁立して畿内(きない)支配の実権をねらった。
1506年(永正3)三好之長(ゆきなが)は、管領(かんれい)細川政元(まさもと)の養子となった阿波守護細川家の澄元(すみもと)を擁して幕府権力を握ろうとしたが、細川高国(たかくに)に敗れて自刃した。その孫元長(もとなが)は足利義維(あしかがよしつな)、澄元の子晴元(はるもと)を伴い畿内支配を目ざしたが、河内(かわち)の守護代木沢長政(きざわながまさ)と一向一揆(いっこういっき)に攻められ敗死。その子長慶(ながよし)は1549年(天文18)将軍義輝(よしてる)、管領晴元を近江(おうみ)に追い畿内を支配したが、晩年は失意のうちに死去した。次に家督を継承した義継(よしつぐ)は松永久秀(ひさひで)、三好三人衆らとともに将軍義輝を殺害し、長慶政権を継承したが、入京した織田信長に降(くだ)った。義継は1573年(天正1)に信長に背き殺された。三好氏は細川氏を中心とした管領制支配を終わらせ、独自の畿内支配を行ったが、幕府に依存する体質が最後まで抜け切れず、信長にとってかわられた。
[矢田俊文]