藍住町(読み)あいずみちよう

日本歴史地名大系 「藍住町」の解説

藍住町
あいずみちよう

面積:一六・二七平方キロ

板野郡南東部にあり、南を吉野川が東流し、旧吉野川(かつての吉野川本流)が西から北、さらに東へと流れる。東は北島きたじま町、南は徳島市、西は上板かみいた町・板野いたの町、北は鳴門市に接する。吉野川下流域の平坦地を占め、南部をほぼ東西に四国縦貫自動車道が横断し、東端を南北にJR高徳線が通る。

和名抄」記載の板野郡井隈いのくま郷を東部勝瑞しようずいから鳴門市にかけての一帯に比定する説がある。中世には東部に井隈郷の後身とみられる井隈庄、その西に矢上やかみ庄、その西側現富吉とみよし地区から現板野町川端かわばたにわたる地域に富吉庄、西端の東中富ひがしなかとみ一帯に光富みつとみ保が成立したと考えられる。承久の乱の結果、承久三年(一二二一)土御門上皇は土佐国に流され、貞応二年(一二二三)阿波国に移り、寛喜三年(一二三一)一〇月に没するまで阿波国に滞留した。上皇の行在所に関しては、土成どなり吉田よしだ御所屋敷ごしよやしき、板野町下庄しものしよう栖養の森すがいのもり、当町勝瑞などに比定する説があるが、「明月記」安貞元年(一二二七)閏三月一五日条の記事から上皇の御所が海辺近くにあり、かつ守護所に近かったと考えられることから、勝瑞所在説が有力である。承久の乱後阿波国守護には小笠原長清の子長経が補任されており、守護所の位置についても三好みよし池田いけだ(現池田町)説、美馬みま岩倉いわくら(現脇町)説などとともに勝瑞説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藍住町」の意味・わかりやすい解説

藍住〔町〕
あいずみ

徳島県北東部,吉野川下流域にある町。 1955年藍園 (あいぞの) 村,住吉 (すみよし) 村が合体して町制。藩政時代から明治中頃まで盛んであった藍作や藍玉の販売は衰えたが,現在も大農家が多く,都市向けの野菜や花卉の栽培に転換。近年は住宅地化が進む。 JR高徳線勝瑞 (しょうずい) 駅近くに室町時代 240年間,細川三好氏の政治の中心となった勝瑞城跡がある。町の公民館に保存される阿波藍栽培加工用具は重要有形民俗文化財。徳島自動車道が通りインターチェンジがある。面積 16.27km2人口 3万5246(2020)。

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