勝連間切
かつちんまぎり
沖縄島中部の東海岸、太平洋に突き出た勝連半島を与那城間切と二分し、中城湾に面した半島のほぼ南側を占める。また半島東方海上の津堅島・浜比嘉島を含み、現勝連町域にあたる。北は具志川間切(現具志川市)に接する。中頭方に属する。カッチンとよばれ、「球陽」「琉球国旧記」などでは勝連郡・勝連県とも記される。古琉球期には勝連グスクが築かれており、「おもろさうし」巻一六の七に「一 かつれんわ てたむかて(勝連は陽に向かって)/ちやうあけて(門開けて)/またまこかね よりやう たまのみうち(真玉黄金寄り合う玉の御内〔聖域〕)/又 きむたかの 月むかて(肝高は月に向かって)/又 かつれんわ けさむ みやも あんし ゑらふ(勝連は昔も今も〔立派な〕按司を選ぶ)」とある。「たまのみうち」と「きむたか」は勝連グスク内の御嶽の名である。「琉球国由来記」には城内の玉ノミウヂ嶽と肝タカノ嶽がみえる。この勝連グスクの按司は「中山世鑑」以来阿麻和利とされる。また「おもろさうし」巻一六の三と八では「かつれんのあまわり」が謡われている。正保国絵図には「勝連間切」とあり高二千二二石余。絵図郷村帳には高江洲(現具志川市)、はへ原(南風原)・平安名・へしきや(平敷屋)・はま(浜)、西原・与那城・あせり(安勢理)・やけな(屋慶名)・平安座・宮城島・伊計島・によへん(饒辺)・やふつ(藪地)島(以上現与那城町)と、一七三六年当時すでに存在していなかったと注記されるおそこ川・よろん・いけた・はんたの四ヵ村の、計一八の村名が記される。琉球国高究帳によれば勝連間切は一二ヵ村で、高頭二千二二石余、うち田九一四石余・畠一千一〇七石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では惣高と田高は同じで、畠一千六四石余・桑役四三石余となっている。
康熙一五年(一六七六)に勝連間切のうち九ヵ村に加え新たに二ヵ村を設け一一ヵ村で西原間切を新設、同年に平田間切と改称し、さらに康熙二六年に与那城間切と改めたという(「球陽」尚貞王八年条)。「南島風土記」では、与那城間切分離の際高江洲、宮里(現具志川市)の二村を具志川間切に割き、津堅村を西原間切(現西原町など)より入れ、内間・浜崎・小舎覇・比嘉・神谷の五村を新設したとするが、はっきりしない。ただ高江洲村・宮里村は乾隆二年帳では勝連間切に属し、また津堅村は琉球国高究帳で西原間切に属している。このことから与那城間切新設の際に高江洲・宮里二村を具志川間切に割き、津堅村を勝連間切に編入した可能性は高い。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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