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勧修寺光豊 かじゅうじ みつとよ

美術人名辞典の解説

勧修寺光豊

公卿、晴豊の男。一字名は芳。権大納言従二位、元和5年閣内大臣。慶長17年(1612)歿、38才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

勧修寺光豊 かじゅうじ-みつとよ

1576*-1612 織豊-江戸時代前期の公卿(くぎょう)。
天正(てんしょう)3年12月7日生まれ。勧修寺晴豊の子。蔵人頭(くろうどのとう)などをへて慶長4年参議に任じられる。8年広橋兼勝とともに江戸時代最初の武家伝奏となり,朝廷と幕府間の調停にあたった。17年従二位,権(ごんの)大納言。慶長17年10月27日死去。38歳。元和(げんな)4年内大臣を追贈される。日記に「光豊公記」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

勧修寺光豊

没年:慶長17.10.27(1612.11.19)
生年:天正3.12.7(1576.1.7)
安土桃山・江戸前期の公家。勧修寺晴豊の長男,母は土御門有脩の娘。慶長9(1604)年6月権中納言,同17年1月従二位,死の2日前,権大納言に任じられた。その間,慶長8年2月広橋兼勝と共に武家伝奏となった。同月12日,徳川家康将軍宣下に際し,勅使となり伏見へ赴いている。慶長10年4月16日,徳川秀忠の将軍宣下のときには上卿を務めている。江戸幕府草創期の10年間,武家伝奏としてよく朝幕間の折衝に当たった。日記『光豊公記』が,天正18(1590)年より慶長17年まで15巻残されており,豊臣政権,徳川政権の動きを知る上で重要かつ興味ある記事が散見される。

(藤田恒春)

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世界大百科事典 第2版の解説

かじゅうじみつとよ【勧修寺光豊】

1575‐1612(天正3‐慶長17)
江戸初期の公卿。贈内大臣晴豊の子。1582年元服,昇殿。97年右中弁,蔵人頭。99年右大弁,参議。1603年権大納言広橋兼勝とともに江戸幕府最初の武家伝奏となり,晩年までその任にあり朝廷・幕府間の調停に重きをなした。04年権中納言,死の前日権大納言となり,18年(元和4)内大臣を贈られた。その日記を《光豊公記》といい,1590‐1612年の16冊が京都大学に所蔵されている。【橋本 政宣】

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