北マケドニア共和国(読み)きたまけどにあきょうわこく(その他表記)Republic of North Macedonia 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「北マケドニア共和国」の意味・わかりやすい解説

北マケドニア共和国
きたまけどにあきょうわこく
Republic of North Macedonia 英語
Република Северна Македониjа/Republika Severna Makedonija マケドニア語

ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和国。もとは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つで、1991年に独立国家となった。憲法上は「マケドニア共和国」を正式名称とし、国際機関などでは暫定名称であるマケドニア旧ユーゴスラビア共和国Former Yugoslav Republic of Macedoniaを使っていたが、2019年1月に憲法上の国名を「北マケドニア共和国」に変更、2月に国際連合に通知、受理された。北をセルビアコソボ、西をアルバニア、東をブルガリア、南をギリシアと接する内陸国である。面積2万5713平方キロメートル、人口183万6713(2021年センサス)。首都スコピエ。民族構成はマケドニア人が全人口の58.4%を占め、ほかにアルバニア人(24.3%)、トルコ人(3.9%)、ロマ(2.5%)、セルビア人(1.3%)などからなる。言語はマケドニア語アルバニア語を使用。マケドニア正教徒(約7割)とイスラム教徒(約3割)がほぼ全体を占める。

 中央をバルダル川が南流し、この流域の南部は地中海性気候である。東と西の国境沿いには1500メートルを超える山脈が連なり、多くの山間盆地が分布する。なかでもスコピエの盆地は最大のものである。同国の南西には陥没した盆地が多く分布し、オフリド湖、プレスパ湖も、最終氷期に氷河作用を受けたが、構造的には陥没湖である。ビトラ盆地の中央部は低湿であったが、排水路の建設によって干拓された。これらの盆地はおおむね大陸性気候である。主要産業は牧畜、農業で、麦類、ブドウとワイン、ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、タバコを産する。肥沃(ひよく)な沖積平野ではワタ、米が、山間部ではケシが栽培されている。鉄鉱石、亜鉛、クロムなどの天然資源にも恵まれている。旧ユーゴスラビアを構成していた各国のなかでは工業化が遅れた地域である。

[漆原和子・山崎信一 2023年9月20日]

歴史

マケドニアとは歴史的な地名であり、この呼称はアレクサンドロス大王の古代マケドニア王国に由来している。山々が連なるバルカン半島にあって、マケドニアは肥沃な平野と良港テッサロニキ(現、ギリシア領)に恵まれ、豊富な鉱物資源を有していた。そのため、古来この地域には多くの民族が去来した。6世紀から7世紀にかけて、マケドニアに移動してきたのが南スラブ人であり、かれらが近代に至り、マケドニア人として自覚することになる。マケドニア地方の民族構成は複雑であり、隣接するギリシアと同じギリシア系住民、ブルガリアやセルビアと同じブルガリア系住民やセルビア系住民、そして後者と共通のスラブ語を話しながら、かれらとは異なる南スラブの住民がいて、さらにトルコ系、アルバニア系住民もいた。民族構成の複雑さに加えて、15世紀以来オスマン帝国のもとに深く組み込まれたため、この地域のスラブ語を話す住民の民族としての自覚が遅れた。

 その結果、マケドニアはオスマン帝国からの独立や自治を達成した近隣諸国ギリシア、セルビア、ブルガリアの領土的野心の対象とされた。1870年代から、これら3国がマケドニアの領有を主張して対立を繰り返した。バルカン諸国の対立とヨーロッパ列強の利害が絡むなかで、最大の犠牲者はこの地方に住む住民であった。マケドニアの住民の民族としての自覚は遅れたが、1893年には「マケドニア人のためのマケドニア」を掲げる内部マケドニア革命組織VMRO)が結成された。VMROは1903年に自らの目的を達成するため蜂起(ほうき)し、一時的ながら自治政府を形成して共和国を宣言したが、オスマン帝国軍によって鎮圧された。この蜂起は旧暦7月20日の聖イリヤの日に行われたためイリンデン蜂起とよばれている。しかし、その後、1912年10月から1913年5月にかけて起きた第一次バルカン戦争で、オスマン帝国軍がバルカン連盟諸国に敗北してバルカン半島から撤退すると、マケドニアは権力の真空地帯となった。マケドニアをめぐり、バルカン連盟諸国の領土要求が衝突し、バルカン諸国の間で第二次バルカン戦争(1913年6月~1913年8月)が生じた。バルカン戦争後、マケドニアは分割され、戦争に勝利を収めたギリシアが50%、セルビアが40%、敗戦国ブルガリアが10%を領有した。セルビアの領土となったマケドニアは、第一次世界大戦後の1918年12月に建国された「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」に組み込まれた。

 第二次世界大戦期には、ユーゴスラビア内のマケドニア地方はブルガリアとイタリアによって占領された。マケドニアでもパルチザン戦争が展開され、パルチザンが勝利を収めた。

 1945年にユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、マケドニアは構成6共和国の一つとなり、マケドニア人は初めて国家をもつことになった。社会主義ユーゴのもとで、マケドニア人が民族として承認され、マケドニア語やマケドニア文化が確立された。

[柴 宜弘]

政治―独立以後の発展

1990年から顕著になるユーゴ解体の過程において、独立の方針を固めたスロベニア、クロアチアと、連邦維持のセルビア、モンテネグロとの対立を弱めようと、マケドニアはボスニア・ヘルツェゴビナとともに努力を重ねた。しかし、1991年6月にスロベニアとクロアチア両共和国が独立を宣言し、クロアチアでは内戦が生じるに及び、マケドニアでも独立の方針が出された(ユーゴ紛争)。1991年11月に新憲法を制定して独立を宣言し、平和裏に独立したマケドニアにとって、最大の問題は国内のアルバニア人問題と隣国ギリシアとの関係であった。一時、隣接するコソボやアルバニアから多くのアルバニア人が職を求めて流入し、社会問題となった。また、「マケドニア」という国名や国旗を巡りギリシアと対立、関係が緊張化したが、1993年「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国(FYROM)」という暫定名称を用いることでギリシアの譲歩を引き出し、国際的な承認を得て国連加盟を果たした。しかし、1994年にギリシア側がマケドニアに対する制裁措置という強硬手段に訴えたため、緊迫した状況が続いた。1995年9月に国連の仲介により、国旗のデザイン変更を認めるなどマケドニアが妥協して政治的合意が成立し、両国の関係は好転したが、その後も自国内に「マケドニア」という地方をもつギリシアは「マケドニア」という国名を認めないという強硬な姿勢を崩さなかった。

 ギリシアとの国名問題と関連して、1995年10月には、大統領グリゴロフKiro Gligorov(1917―2012)がギリシアへの妥協に反対するグループのテロに巻き込まれて負傷する事件が起こった。にもかかわらず、善隣友好を掲げるグリゴロフのもとで、マケドニア外交は大きな成果をあげた。グリゴロフは1999年12月に任期満了で退任し、後任の大統領にトライコフスキBoris Trajkovski(1956―2004)が就任した。しかし、2004年2月トライコフスキは小型飛行機の墜落事故により死亡、それを受けて臨時大統領選挙が行われ、同年5月マケドニア社会民主同盟(SDSM)のブランコ・ツルベンコフスキBranko Crvenkovski(1962― )が大統領に就任。内政面では、1996年11月に独立後、初の地方選挙が実施され、与党のSDSMが右派の野党連合をおさえて勝利を収めたが、1998年10~11月の総選挙では野党連合が躍進し、政権を奪取した。2002年9月に行われた総選挙では、SDSMが半数の議席を獲得し、政権に返り咲いた。2006年には、任期満了に伴う国会総選挙の結果、内部マケドニア革命組織・マケドニア国民統一民主党(VMRO-DPMNE)中心の右派連合による内閣が成立。ニコラ・グルエフスキNikola Gruevski(1970― )が首相となった。2008年6月に行われた総選挙においてもVMRO-DPMNEは過半数を獲得して勝利を収め、アルバニア系の政党と連立を組み、第二次グルエフスキ政権を発足させた。また、2009年4月の大統領選挙では与党の推薦を受けたVMRO-DPMNEのギョルゲ・イバノフGjorge Ivanov(1960― )が大統領に当選した。

 一方、国内のマイノリティであるアルバニア人問題については、2001年2月に、アルバニア人の権利拡大を目ざす武装勢力と治安部隊との衝突が生じた。国際社会の監視のもと、政府とアルバニア系政党との長い交渉の結果、同年8月にオフリド和平合意が成立した。この結果、憲法が修正され、マケドニア語とアルバニア語の平等、アルバニア人の国家公務員や地方公務員の比率を高める施策などが進められた。

 政体は共和制。議会は一院制、120議席。元首は大統領(任期5年)。1991年の独立後から、ヨーロッパへの統合を最大の政治課題として、民主化と市場経済化を進めてきた。2005年12月、EU(ヨーロッパ連合)の加盟候補国になり、1995年にはいち早くNATO(北大西洋条約機構)との「平和のためのパートナーシップ」を結び、加盟申請を提出したが、ともにギリシアの反対にあって足踏みした。

[柴 宜弘・山崎信一 2023年9月20日]

 2006年に成立した右派のグルエフスキ政権も、前政権を引き継ぎEUとNATOへの加盟を志向した。2008年4月のNATO首脳会議で、ギリシアの反対によりNATO加盟が認められなかったためマケドニアはギリシアへの反発を強め、1995年の暫定合意への違反だとして2008年11月にはギリシアを国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。ICJは、2011年にマケドニアの提訴を認める裁決を下し、その後も国連の仲介のもと交渉が行われた。

 グルエフスキ政権のもとでは、マケドニア人のルーツを古代マケドニアに求める古代起源説が主張され、2011年にはスコピエの中心広場にアレクサンドロス大王の巨大な騎馬像が建設されるなどした。こうした主張にギリシアは「歴史の簒奪(さんだつ)」であるとして反発を強め、国名をめぐる交渉も停滞した。

 2016年12月の議会選挙では第1党のVMRO-DPMNEと第2党のSDSMが拮抗(きっこう)したが、翌年5月にSDSMのゾラン・ザエフZoran Zaev(1974― )を首相とする連立政権が成立すると、ギリシアのチプラスAlexis Tsipras(1974― )政権との間で国名問題をめぐる交渉が進展した。2018年1月、国名を北マケドニアに変更することで合意が成立し、6月には、両首相によりプレスパ協定が署名された。国名は北マケドニアと変更されるが、マケドニア人、マケドニア語という表現はそのまま用いることが認められた。翌年1月に、憲法改正により国名が「北マケドニア共和国」に変更された。ギリシアの反対が解けたことで、2020年3月にNATOに正式加盟した。EUとの関係では、歴史認識をめぐる対立からブルガリアが加盟交渉入りを一時阻止したが、2022年7月に加盟交渉が開始された。

[山崎信一 2023年9月20日]

経済・産業

通貨はマケドニア・デナールDenar。主要産業は農業、繊維、鉄などの鉱業で、伝統的に農業が盛んである。2021年の国内総生産(GDP)は138億ドル、1人当りGDPは6695ドル、貿易額は、輸出が69億2000万ユーロ、輸入が96億4000万ユーロ。主要輸出品目は機械、輸送機器・部品、化学製品、非鉄金属などで、主要輸出相手国はドイツ、ブルガリア、コソボ、セルビア、ハンガリー、主要輸入品目は鉄鋼、繊維、一般機械・輸送機器、化学製品などで、主要輸入相手国はイギリス、ドイツ、ギリシア、セルビア、中国(2021)。

[山崎信一 2023年9月20日]

日本との関係

日本は、1993年(平成5)12月にマケドニアを「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名称で国家承認し、1994年3月に外交関係を樹立。2017年1月、首都スコピエに大使館が開設された。2019年2月より、日本でも「北マケドニア共和国」を国名として使用している。

[柴 宜弘・山崎信一 2023年9月20日]

『クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』(1995・恒文社)』『柴宜弘著『図説バルカンの歴史』(2006・河出書房新社)』『芦沢宏生著『現代マケドニア考』(2008・中央大学出版部)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』新版(岩波新書)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

知恵蔵mini 「北マケドニア共和国」の解説

北マケドニア共和国

東ヨーロッパのバルカン半島中部に位置する共和制国家。東をブルガリア、西をアルバニア、南をギリシア、北をセルビア、コソボと接している。首都はスコピエ。面積2万5,713平方キロメートル、人口208万人(2015年世界銀行データ)。1945年、旧ユーゴスラビアを構成する共和国の一つとして発足。91年に独立し、憲法上の国名を「マケドニア共和国」とした。しかし、「マケドニア」は古代ギリシャからの由緒ある地名で、国内に同名の地方を有するギリシャが反発したことから、93年に暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で国際連合への加盟が承認された。その後も国名を巡りギリシャとの対立が続いたが、2019年1月、両国の議会での承認を経て「北マケドニア共和国」への国名変更が決定した。

(2019-1-29)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

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