ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和国。セルビア語ではツルナ・ゴーラCrna Gora(黒い山の意)という。15世紀にトルコ人とアルバニア人の侵略を受けた際にツルナ・ゴーラとよばれる高原地帯に立てこもって抗戦したことにちなむ。「モンテネグロ」はイタリア語で「黒い山」を意味し、英語、フランス語、ドイツ語でもモンテネグロとよばれる。国土の南はアドリア海に臨み、北西をボスニア・ヘルツェゴビナ、北東をセルビア、東をコソボ、南東をアルバニアと接する。面積1万3812平方キロメートル、人口61万7740(2003年センサス)、約62万4000(2006年推計)。首都はポドゴリツァ(旧名、チトーグラード)。
もともとはユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つで、1992年からはセルビアとともにユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を構成していた。2003年2月公布の新憲法(憲法的憲章)に基づき、両共和国の行政権を大幅に拡大した、より緩やかな連合国家へ移行。国名をセルビア・モンテネグロと改称した。その後はセルビア・モンテネグロの構成共和国となっていたが、かねてより分離独立志向が強く、2006年5月21日に独立の是非を問う住民投票を実施。その結果、賛成多数により独立を決定、同年6月3日モンテネグロは独立を宣言し、独立国家モンテネグロ共和国Republic of Montenegro(Republika Crne Gore)となった。その後、2007年10月新憲法を制定、正式な国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。なお、モンテネグロの独立を受け、セルビアは、セルビア・モンテネグロの承継国として独立国家セルビア共和国となった。
住民は、モンテネグロ人(43%)が多いが、ほかにセルビア人(約32%)、ムスリム(イスラム教徒)、アルバニア人、ロマなど多くの民族からなる。第一の公用語はセルビア語であるが、モンテネグロ語、ボスニア語、アルバニア語、ハンガリー語、ロマ語など多くの言語が用いられている。宗教も多様で、セルビア正教徒、カトリック、イスラム教徒、プロテスタント、その他などとなっている。
南西部はディナル・アルプス南端に相当し、石灰岩の高原地帯で、モラチャ川流域以外はほとんど耕作不能である。東部は大陸性気候で草原をなす。アドリア海岸は地中海性気候で、夏きわめて高温になる。牧畜、林業のほか、第二次世界大戦後は工業化も進んだ。水力発電が行われ、豊富なボーキサイトを利用してポドゴリツァにアルミニウム・コンビナートが建設された。1976年には、ベオグラードとアドリア海岸の港湾都市バールとの間に480キロメートルの鉄道が開通し、輸送事情が改善された。
[漆原和子]
モンテネグロの歴史はセルビア中世史の一部を形成している。1355年にセルビア王ドゥシャンが死んだ後、シュコーデル湖(スカダル湖。アルバニア語名、シュコドラ湖)北部のモンテネグロ地方がゼータ侯国としてセルビアの統治から脱した。15世紀後半にオスマン帝国(トルコ)の支配に屈したものの、1422年に創設されたツルノエビッチ王朝のイバンIvan Crnojević(在位1465~1490)は、山岳地のツェティニェに首都を移し、その独自性を保持した。ツェティニェには修道院がつくられ、またベネチアから印刷機が輸入されて出版活動も進んだ。1516年ツルノエビッチ王朝が終息すると、しだいに力を増していた東方正教会主教「ブラディカ」が支配権を手中にして、神政国家を形成した。1699年にブラディカに選出されたダニロ・ペトロビッチDanilo Petrović(在位1697~1735)は世襲制を確立し、以後第一次世界大戦まで、ペトロビッチ家の統治が続いた。ロシアとの関係が強化され、オスマン帝国の攻撃に耐えた。ペータル1世Petar Ⅰ Petrović Njegoš(在位1784~1830)や詩人でもあるペータル2世Petar Ⅱ Petrović Njegoš(在位1830~1851)はよく知られている。1878年のベルリン条約でセルビアとともに正式に独立を承認された。ニコラ国王Nikola Petrović(在位1860~1918)は娘たちをイタリア、ロシア、ドイツ、セルビアなどヨーロッパの王家に嫁がせたため、「ヨーロッパの義父」とよばれた。第一次世界大戦後、南スラブ人の統一国家である「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年以後、ユーゴスラビア王国と改称)に統一された。
[柴 宜弘]
「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」への統合に際して、セルビア王国との統一か、モンテネグロ王朝の保持かで二分していたモンテネグロ議会は、最終的には当時の客観情勢からセルビアとの統一を採択した。新国家において、自らの王朝を廃したモンテネグロでは、セルビアと同一視される傾向が強まったため、これに反対してモンテネグロの自治を求めるグループが、一時大きな勢力となった。第二次世界大戦期、山岳地のモンテネグロは、ドイツをはじめとする枢軸軍に抵抗するパルチザン戦争の主要な舞台となった。パルチザンが勝利を収め、1945年11月には、チトーを首班とするユーゴスラビア連邦共和国(旧ユーゴスラビア)が成立。モンテネグロ人が民族として承認され、モンテネグロは構成6共和国のうち最小の共和国となった。
第二次世界大戦後の自主管理社会主義体制下では、分権化が進められたが、人口約60万のモンテネグロは経済的に後進の共和国であり、文化的に同質であるセルビアとつねに協調行動をとってきた。その後「74年憲法」(1974年に改正されたユーゴスラビア憲法)により、6共和国と2自治州の「経済主権」が認められ、緩い連邦制が導入された。1980年のチトーの死去後、1980年代の「経済危機」と共和国への昇格を求めるコソボのアルバニア人分離独立問題が長期化するなか、セルビアでは連邦制の強化を求める動きが顕著になり、民族主義の高まりを背景にして、ミロシェビッチが指導者として登場した。1980年代末には、連邦制の強化か、あるいは緩い国家連合への移行かをめぐり、セルビアとスロベニアが対立し、旧ユーゴは解体へと向かう。1990年に行われた共和国ごとに実施された自由選挙では、社会党と改称した共産主義者同盟が勝利を収めた。旧ユーゴが解体していく過程においても、モンテネグロはセルビアとともに連邦維持の立場を貫いた。
1991年6月スロベニア、クロアチアが独立を宣言し、ユーゴ紛争(ユーゴスラビア内戦)が始まった。1992年1月には、両国がEC(ヨーロッパ共同体)諸国の承認を受けたことから、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が実質的に解体し、スロベニア、クロアチア、そしてマケドニア(現、北マケドニア共和国)、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言した。同1992年4月、モンテネグロはセルビアとともに、旧ユーゴを継承するユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を建国した。1995年にボスニア内戦が終息したが、新ユーゴでは、ミロシェビッチが実権を握り続けた。新ユーゴは国際復帰を果たせず、経済不振が継続したため、モンテネグロは自立傾向を強めた。また、ミロシェビッチ政権がコソボ紛争(1998~1999年)をめぐり、国際社会と対立し、1999年3月に新ユーゴはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍の空爆を受けた。この結果、モンテネグロの自立化傾向は強まった。
2000年9月、経済制裁が続く最悪の経済状態のもとで行われた大統領選でミロシェビッチは敗北、10月の「民衆革命」により、13年に及ぶミロシェビッチ政権は崩壊し、セルビア野党連合(DOS)のコシュトゥニツァが新大統領となった。モンテネグロの自立化要求を受けて、2003年2月、連邦議会において新ユーゴを連合国家として再編するための憲法的憲章が採択された。これに伴い、国名がそれまでの「ユーゴスラビア連邦共和国」から「セルビア・モンテネグロ」に変更された。ユーゴスラビアという名称は完全に消滅した。
その後も、ユーロを通貨とし、経済・法律などの体制もセルビア共和国と異なるモンテネグロ共和国では、独立傾向が強まった。2006年5月21日に行われた独立の是非を問う国民投票で、独立賛成票が55%を超えた。この結果を受けて、独立賛成案が議会で可決され、同年6月3日、人口65万人のモンテネグロは独立を宣言した。すぐに国際的承認を受けることができ、同年6月28日に国連に加盟。2007年10月に新憲法を制定し、正式な国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。
政体は共和制。元首は大統領で任期は5年。2011年時点で大統領はフィリップ・ブヤノビッチFilip Vujanović(1954― 、任期2003~ )。議会は一院制で81議席、任期は4年。政党は社会主義民主党、社会民主党、社会人民党、人民党、新党「変革のための運動」などがある。1991年以来、政権の中枢にいた実力者は社会主義民主党党首ミロ・ジュカノビッチMilo Djukanović(1962― )で、首相と大統領を歴任。2009年3月の議会選挙(定数81)でも社会主義民主党中心の与党連合が勝利し、ジュカノビッチ政権が継続したが、2010年12月、ジュカノビッチは最大の政治課題であるEUとNATO加盟の端緒を開くことができたとして、首相を辞任した。後任の首相には財務相ルクシッチIgor Lukšić(1976― )が就任した。モンテネグロは、2009年12月にNATO加盟申請をしており、2010年12月にはEU加盟候補国になった。
[柴 宜弘]
主要産業は、観光業、農業、製造業。とくに観光業は成長しつつあるが、インフラの整備とサービス向上が課題といえる。GDP(国内総生産)は約31億ドル、1人当りGDPは5214ドル(2007)。貿易額は輸出8.6億ドル、輸入29.5億ドル(2007)、主要輸出品目はアルミニウム、鉄鋼、木工品など、主要輸入品目は自動車、機械、食料品など、主要貿易相手国はセルビア、イタリア、クロアチア、ギリシアなど。
[柴 宜弘]
ディナル(ディナール)・アルプスがなす石灰岩の山岳地が大半を占め、外部から近づきがたい自然の「要塞」となっているため、オスマン帝国の直接統治を免れた。西欧カトリック文化と東方ビザンティン文化が交わる地域としての歴史をもち、文化遺産にもその影響が色濃く残る。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の登録地としては、文化遺産の「コトルの自然と文化:歴史地域」、「中世墓碑ステチュツィの墓所群」(モンテネグロ、セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの4か国で登録)、「16~17世紀ベネチア共和国の軍事防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西部スタート・ダ・マーレ」(モンテネグロ、イタリア、クロアチアの3か国で登録)、自然遺産の「ドゥルミトル国立公園」がある。
[柴 宜弘]
旧ユーゴスラビア連邦時代以来の親日国であり、2004年にはモンテネグロ大学経済学部にも日本語コースが開設された。日本は2006年6月16日にモンテネグロの独立を承認、同年7月に外交関係を開設したが、外交公館は設置されていない。2007年6月にはジュカノビッチが来日。日本への輸出は1.7億円、日本からの輸入は24.8億円(2015年貿易統計)。
[柴 宜弘]
『柴宜弘編『もっと知りたいユーゴスラヴィア』(1991・弘文堂)』▽『柴宜弘著『ユーゴスラヴィアで何が起きているか』(1993・岩波ブックレット)』▽『クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』(1995・恒文社)』▽『伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾、柴宜弘監修『東欧を知る事典(新訂増補)』(2005・平凡社)』▽『柴宜弘著『図説バルカンの歴史』(2006・河出書房新社)』▽『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』▽『木村元彦著『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(集英社新書)』▽『千田善著『ユーゴ紛争――多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書)』
基本情報
正式名称=モンテネグロCrna Gora/Montenegro
面積=1万3812km2
人口(2010)=63万人
首都ポドゴリツァPodgorica(日本との時差=-8時間)
主要言語=モンテネグロ語(公用語),セルビア語,ボスニア語など
通貨=ユーロEuro
バルカン半島中西部,アドリア海に面し,セルビアとともにユーゴスラビア連邦を構成していた共和国。同連邦は2003年に国家連合セルビア・モンテネグロとなったが,06年5月モンテネグロでの国民投票の結果を受けて,同年6月3日に独立を宣言した(同月に国連にも加盟)。議会は一院制で,定数81人。同年9月の選挙で独立前からの連立与党が41議席で勝利し,引き続き政権を担当することになった。ほかに〈セルビア人のリスト〉12議席,市民グループ11議席などがある。首相は2008年2月よりジュカノビッチMilo Djukanobić。国家元首は大統領で,ブヤノビッチFilip Vujanobićが03年就任し,08年に再任されている。07年10月新憲法を制定し,国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。民族構成はモンテネグロ人40%,セルビア人30%,ボスニア人9%など(2003)。ヨーロッパ連合(EU)への加盟を最優先課題とし,ヨーロッパ諸国との関係強化に努めている。また外資を導入するなど,観光開発にも力を入れている。1人当りの国民総所得(GNI)は3860ドル(2006),高い失業率(2006年は16%)と大幅な貿易赤字の克服が求められている。日本は2006年6月に独立を承認,7月には外交関係を開設している。
国名は〈ツルナ・ゴーラCrna Gora〉が正称であるが,住民自身はしばしばイタリア語のベネチア方言である〈モンテネグロMontenegro〉を使用し,ともに〈黒い山〉を意味する。この国の歩みはセルビアと深く関連している。首都ポドゴリツァは旧ユーゴスラビア時代はチトーグラードと呼ばれた。
執筆者:編集部
〈黒い山〉という名の由来は,山地の松柏類が遠目に黒く見えるからとも,石灰岩の山々が雨で黒ずむからともいわれる。名のとおり山がちのカルスト地形で,農業には適さない。最高峰ドゥルミトルDurmitor山は標高2522m。アドリア海沿岸部とシュコダル湖(スカダル湖)周辺,モラチャ川やゼータ川流域は地中海式気候,1400~1700m級の北部山地では大陸性気候を示す。シュコダル湖はバルカン半島最大の湖で,面積の3分の1がアルバニアに属し,漁業が行われている。河川は上記のほかにターラ川とピーバ川があり,いずれも水力発電に適しているが,開発はあまり進んでいない。地下資源ではボーキサイトが旧ユーゴスラビアの30%を占め,ほかにベントナイト,装飾用岩石,石灰石などがある。
古代の先住民であるイリュリア人やローマ人が民族大移動のため姿を消したこの地へ,7世紀初頭セルビア人が移住してきた。中世セルビアのネマニチ王朝は,モンテネグロの出身者ステファン・ネマーニャが創始したものである。ただしネマーニャが内陸部のラシュカへ主都を移してから,この地はセルビア王国の辺境に甘んじた。1355年ステファン・ドゥシャン大帝の死によってセルビア王国が解体すると,当時ゼータZetaと呼ばれたこの地はバルシャ王朝の下に独自の発展を遂げることになった。主都はスクタリ(現,アルバニア領シュコダル)で,その後ジャブリャク,15世紀末には天然の要塞ツェティニェに移され,4世紀近くもオスマン・トルコとの戦闘に明け暮れながらもほぼ独立を保った。
15~16世紀のツルノイェビッチ王朝が終息すると,主教(ブラディカ)が俗界の首長をも兼ねる独特の神政国家が誕生した。17世紀末にダニーロ1世がブラディカに就くとこれを世襲とし,ロシアにピョートル大帝を訪問して補助金を得,20世紀までつづく両国の緊密な関係が成立した。ペータル1世を継いだニェゴシュ(在位1830-51)は,一般に長編叙事詩《栄光の山並み》などの詩人として知られる。しかし彼は中央権力を強化し,上院を設置するなど改革者としても優れ,対オスマン帝国戦争を指揮した武人でもあった。ダニーロ2世(在位1851-60)は聖界と俗界の権力を分離すると,自ら公を名のって行政と文明を西欧的なものに近づけた。ニコラ1世(在位1860-1918)は露土戦争に参加して勝利を博し,1878年のベルリン条約で領土を拡大,待望の海港を得て独立を承認された。その後は社会,経済,文化,教育の面でかなりの進展がみられた。1910年からは王を名のり,12-13年のバルカン戦争では勝者となった。しかし第1次世界大戦末の18年11月26日に議会は,モンテネグロは南スラブ人地域との宣言を行い,モンテネグロ王国は消滅して新たに樹立された〈セルビア人クロアティア人スロベニア人王国〉(のちのユーゴスラビア)の一部となった。第2次大戦中に壊滅的な打撃を受けた古都ポドゴリツァは戦後チトーグラードと改名され,共和国の主都となった。
モンテネグロはいまだに後進地域であるが,それでも工業化が進みつつある。おもな都市と工業を記すと,ニクシッチ(人口7万2000。1981。以下同)の製鉄所,ビエロポーリェ(5万6000)の製材工場,チトーグラードのアルミ工場,イワングラード(5万)の製紙工場,プリェブリャ(4万3000)のセメント工場,ツェティニェ(2万)の電機工場などである。近年は観光にも力を入れ,コトル,スベティ・ステファン,ウルツィニ,ヘルツェグ・ノービなどの海岸都市は,内外の避暑客でおおいににぎわう。
執筆者:田中 一生
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セルビア語ではツルナゴーラという。2003年に成立した連合国家セルビア・モン(新ユーゴ)を構成する共和国。「黒い山」を意味する国名からうかがえるように,国土は山岳地からなる。首都はポドゴリツァ。14世紀に中世セルビア王国から離れて,独自の王朝が築かれた。15世紀末にオスマン帝国の支配下に置かれたが,不毛の山岳地であったこと,ヴェネツィアとの境界地に位置していたことなどの理由から,自治が認められた。セルビア正教会の主教職ヴラディカが,政治的支配権を手中にして神政政治を行った。17世紀末からペトロヴィチ家がヴラディカ職を世襲化する。1918年の南スラヴ統一国家セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の建国に際して,モンテネグロはペトロヴィチ王朝を廃してこれに加わった。第二次世界大戦後,ユーゴスラヴィア社会主義連邦で一共和国となる。旧ユーゴスラヴィア解体に伴い,92年にセルビアとともにユーゴ連邦共和国を建国したが,自立傾向を強めた。2003年2月,連合国家セルビア・モンテネグロに再編された。その後,2006年6月,モンテネグロ共和国として独立。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ユーゴスラビア南西部,モンテネグロ共和国の都市。人口2万(1981)。…
※「モンテネグロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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