北マケドニア共和国の首都。同国南部バルダル川河畔の肥沃(ひよく)な平原に位置する。旧ユーゴスラビア時代のセルビア・クロアチア語ではスコプリエSkoplje。面積1818平方キロメートル。人口45万2500、地区人口59万2500(2003推計)。地区の民族構成はマケドニア人35万4377(65.5%)、アルバニア人11万2914(20.9%)、ロマ2万0966(3.9%)、セルビア人1万9664(3.6%)、トルコ人1万2639(2.3%)、ブラフ人(牧畜を生業とするバルカン半島の少数民族)2229(0.4%)(1994)である。主要道路、鉄道が交差し、バルカン半島でもっとも重要な交通の要所である。また、共和国の政治、経済、文化の中心地として、主要な政府機関が集中している。経済面では、周辺地域で産出する鉱物資源を利用した精錬業、化学工業、製材業、繊維産業などの工場が存在するほか、金融業のセンターでもあるため、各地で産出するタバコやブドウ、穀物などの農産物の輸出業務も行われる。また、文化・教育面での中心地として、総合大学、国立劇場、少数民族劇場、各種博物館や資料館、美術館などがある。町は1963年の地震で大打撃をうけ、中心部は壊滅した。その後、丹下健三の復興計画に基づく再建が行われ、現在では市の中心を流れるバルダル川を中心として近代的建物が並ぶ地帯と、オスマン帝国時代からの商業中心地を再建した旧市街地(スタラ・チャルシヤとよばれる)とが、絶妙のコントラストをなしている。両岸を結ぶ石の橋は15世紀にオスマン帝国のムラト2世(在位1421~1451)が再建した。旧市街地にあるクルシュムリ・ハーンは16世紀の隊商宿として建てられ、19世紀には刑務所として使われていた。15世紀のダウト・パシャの浴場(現、アート・ギャラリー)、同じく15世紀のムスタファ・パシャのモスクなども残る。また、16世紀の聖スパス教会はオスマン帝国によって壊された教会の地下に隠れるようにつくられている。ここには19世紀にデバル出身の職人による木彫りのイコノスタシス(高さ6メートル、幅10メートル。教会の内陣と一般信者の座る場所とを仕切るためのイコン。イコノスタスともいう)や、20世紀初頭の革命家デルチェフの墓がある。市の近郊には、1164年に建てられた正教会(現在はマケドニア正教会)パンテレイモンのほか、14世紀に建造された修道院が点在する。
[大庭千恵子]
町の起源は紀元前4世紀までさかのぼり、ローマ時代にはスクピScupiの名称で知られた。4世紀にテオドシウス皇帝が一時期ここを首府として定めたが518年に地震で倒壊した。東ローマ帝国時代、ユスティニアヌス1世によって再興されたものの、625年にスラブ人が入植し、以後この地をスコピエと名づけた。11世紀には東ローマ帝国に対するスラブ人による二度の反乱の中心地となった。1346年にはセルビア帝国のドゥシャンがここで「セルビア人、ギリシア人、ブルガリア人、アルバニア人の皇帝」として皇位を宣言し、ドゥシャン法典を発布した。しかし、1392年からはオスマン帝国の領土となり、1913年に第二次バルカン戦争の結果セルビアに割譲されるまでユスキュプÜsküpとして知られた。16世紀から17世紀にかけてはバルカン半島のなかでも活気ある町の一つであり、17世紀中葉には1万戸以上、約6万人が居住し、モスクも40を数えたといわれる。第一次世界大戦後は南セルビアの拠点として、8か国の領事館が存在したが、第二次世界大戦中はブルガリアに占領された。戦後は旧ユーゴスラビアの構成共和国の一つであったマケドニア共和国の首都となる。1991年にマケドニアは旧ユーゴから独立したが、スコピエは引き続き首都である。
[大庭千恵子]
2019年に国名を「北マケドニア共和国」と変更した後も首都。
[編集部 2019年6月18日]
マケドニア共和国の首都。セルビア名スコプリェSkoplje。人口46万7257(2002)。スコピエ平原の中央部,エーゲ海に注ぐバルダル川の河畔に位置する。ローマ時代スクピScupiの名で前2世紀から知られたが,518年の地震で壊滅した。ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世が再建した後,7世紀スラブ人が侵入し定住する。同地には10世紀に,サムイロ王(ブルガリア名サムイル)によって初のマケドニア国が組織されたが,再びビザンティン帝国あるいはブルガリア人が治めた。13世紀しばしばセルビアの諸王が占拠,ステファン・ドゥシャンは1346年ここで皇帝を宣言し,3年後に有名な〈ドゥシャン法典〉も発布した。1392年オスマン・トルコが征服し,1912年にバルカン戦争でセルビア王国に帰するまで,5世紀にわたって支配した。その間1555年の大地震,17世紀末オーストリア軍の破壊にもかかわらず,イスラム教徒の町ユスキュプÜsküpとしてにぎわいをきわめた。第1・2次大戦の間の時期には南セルビアの主都,バルカン半島中央部を扼する重要な拠点として,8ヵ国が領事館を置いた。
1944年秋ブルガリア占領軍から回復し,マケドニア人のためのマケドニア共和国主都となり,政治・経済・文化の中心として急速に発展。しかし63年7月26日またも大地震に見舞われ,町の中心部は壊滅,死者は1000人を超えた。現在は丹下健三の復興計画を下敷きにした近代都市に生まれ変わった。1873年にテッサロニキと,88年にはベオグラードと鉄道でつながり,第2次大戦後は空港も得ておおいに活気を呈している。鉄鋼・金属・土木・電気機具・アルコール飲料・タバコ・食品・繊維工業が発達し,総合大学,新設されたアカデミー,ラジオ・テレビ局,撮影所,出版社,印刷所,総合劇場,民族劇場(トルコ語,アルバニア語を用いる),多くの博物館,研究所,画廊がある。右岸の新市街には政庁やデパート,新しい駅,ホテルなど近代的な建物が目につく。左岸はオリエント風の色彩豊かな小店が立ち並び,狭い通路は観光客で混雑している。
市内の歴史的建築物としては,ムスタファ・レシト・パシャ,ガージー・イサ・ベグ,スルタン・ムラトの三つのモスク,古い隊商宿のクルシュムリ・ハーン,17世紀の聖スパス教会,特に教会内部を仕切る19世紀の木彫イコノスタシス,ダウト・パシャのトルコ風呂を改造した画廊,小高い丘の上のドゥシャン城址などみるべきものが多い。両岸を市中で結ぶ石橋はドゥシャン橋とも呼ばれるが,15世紀にオスマン帝国のスルタン,ムラト2世が再建したもの。郊外にはローマ時代の水道橋跡や12世紀ビザンティン様式の壁画が美しいネレジ修道院がある。
執筆者:田中 一生
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