神戸城下(読み)かんべじようか

日本歴史地名大系 「神戸城下」の解説

神戸城下
かんべじようか

[現在地名]鈴鹿市神戸一―九丁目・神戸本多かんべほんだ町・神戸地子かんべじし町・神戸寺家かんべじけ

鈴鹿川右岸の低位段丘の末端部に位置する城下町。神戸城は神戸町家の南方にあり、小丘上に築かれた平山城である。南北朝時代、鈴鹿川流域を支配した関氏一族は五家に分れたが、長男盛澄は西条にしじようの南方さわ城に拠って、神戸氏を称した。神戸氏は天文末年その北東六〇〇メートルの現在の神戸城に移った。それは具盛の時とも、利盛の時ともいわれ定かでない。城の移転とともに神戸氏による城下づくりが行われ、菩提寺龍光りようこう(臨済宗東福寺派)西条から神戸石橋かんべいしばし町に移った。当時の城の規模は不明であるが、おそらくのちに天守閣の築かれた一郭と思われる。神戸氏時代の城下町については知るべき資料もないが、城下繁栄のために従来神戸町の東方の水田中を通っていた伊勢参宮街道を西に曲げて、城下を通るようにしたという(神戸平原地方郷土史)宿駅として伝馬の制のあったことは、弘治三年(一五五七)三月、山科言継が遠江よりの帰途、伊勢参宮のため尾張常滑とこなめより長太なごに上陸した際、神戸宿に伝馬を依頼したことでもわかる(言継卿記)。この頃すでに十日市とおかいちには定期市が開かれ、宿駅の中心ともなっていたと思われる。

神戸氏は南勢北畠氏と結び、時には鈴鹿山脈を越えて北勢に侵入した江州佐々木軍と戦い、北勢四十八家のなかに勢力を振るっていたが、七代友盛の時の永禄一〇年(一五六七)織田信長軍の侵攻により、翌一一年信長の三男(三七郎、のちの信孝)養子に迎えることを条件として降伏した。やがて神戸家を継いだ信孝は父の方策を受継いで、天正三年(一五七五)神戸十日市町に諸役免許状を与え、楽市・伝馬の制などを定め、地子を免除して城下の繁栄をはかった(高野家文書)。次いで天正八年神戸城を拡張し、五重の天守閣を築いたが、天正一〇年本能寺の変後、城を小島民部少輔に譲り岐阜に移る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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