日本歴史地名大系 「神戸城下」の解説
神戸城下
かんべじようか
鈴鹿川右岸の低位段丘の末端部に位置する城下町。神戸城は神戸町家の南方にあり、小丘上に築かれた平山城である。南北朝時代、鈴鹿川流域を支配した関氏一族は五家に分れたが、長男盛澄は
神戸氏は南勢北畠氏と結び、時には鈴鹿山脈を越えて北勢に侵入した江州佐々木軍と戦い、北勢四十八家のなかに勢力を振るっていたが、七代友盛の時の永禄一〇年(一五六七)織田信長軍の侵攻により、翌一一年信長の三男(三七郎、のちの信孝)を養子に迎えることを条件として降伏した。やがて神戸家を継いだ信孝は父の方策を受継いで、天正三年(一五七五)神戸十日市町に諸役免許状を与え、楽市・伝馬の制などを定め、地子を免除して城下の繁栄をはかった(高野家文書)。次いで天正八年神戸城を拡張し、五重の天守閣を築いたが、天正一〇年本能寺の変後、城を小島民部少輔に譲り岐阜に移る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報