十王町(読み)じゆうおうちよう

日本歴史地名大系 「十王町」の解説

十王町
じゆうおうちよう

[現在地名]岡崎市十王町

伝馬てんま町の中ほど十王堂より南へ南北に通ずる町。南は満性まんしよう寺門前菅生すごう。町の長さ九五間二尺・幅二間。十王町北端角に入口が伝馬町に面する十王堂があり、町名はそれによる。十王堂は、寛文元年(一六六一)岡崎城主水野忠善が大用存来を開山として建立。町もその頃から形成されていったものであろう。十王堂は曹洞宗焔魔山頭陀寺と称し「三河国名勝志」に、

<資料は省略されています>

とある。寛政五年(一七九三)芭蕉百回忌に藩主叔父である本多忠寛(三秀亭李喬と号す)が「都出てゝ神も旅寝の日数哉」の供養碑を立てた(旅の日数)


十王町
じゆうおうまち

面積:七二・一七平方キロ

多賀郡の全域を占め、北は高萩市、西は久慈郡里美村、南は日立市、東は太平洋。海岸沿いを国道六号(岩城相馬街道)が縦貫する。町域の大部分は多賀山地丘陵で、北西端の境界に竪破たつわれ山がそびえ、ほぼ中央部を十王川、その北寄りを小石こいし川がほぼ東流する。川沿いに集落が点在し、東側の海岸段丘面上の国鉄常磐線川尻かわじり駅を中心に集落の形成が進んでいる。

総面積の四分の三は山林原野で、田畑は一一パーセントにすぎない。町最大の産業は石炭業で、歴史は江戸時代にさかのぼるが、生産が増大したのは昭和一〇年(一九三五)代からで、同三〇年代からは斜陽化している。


十王町
じゆうおうちよう

[現在地名]厳原町国分こくぶ

おお町の東にある。府中ふちゆう商人町二四ヵ町の一つ。はじめ地蔵菩薩を安置していたことから地蔵じぞう町とよばれ、のち冥府十王を祀ったため十王町と改めた。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に「十王小路北側町」一六軒、「十王小路南側町」三二軒とある。十王小路に魚屋が並ぶ。元文五年(一七四〇)に「十王北南町」(「屋敷方」同文書)、安永元年(一七七二)の長崎奉行報告書(通航一覧)に十王北町・十王南町がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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