山部村
やまべむら
[現在地名]直方市山部・新町一―三丁目・古町・須崎町・日吉町・神正町・丸山町
彦山川合流点付近の遠賀川中流左岸に位置する。東は直方町、北西は上新入村。山辺村とも書く。もとは新入村の枝村で、同村からの分村時期について「続風土記」は知古村とともに寛永一六年(一六三九)に別村となったと記す。福岡藩成立後は同藩領となるが、元和九年(一六二三)に支藩の東蓮寺藩が成立すると同藩領となり、寛永三年には当村(当時は新入村の枝郷)のうち東蓮寺や下境村のうちを割いて東蓮寺藩の陣屋町(東蓮寺城下、東蓮寺町)が形成された。延宝三年(一六七五)東蓮寺は直方と改称、東蓮寺藩も直方藩となった。同五年直方藩は廃藩となり当村は福岡藩に復した。元禄元年(一六八八)直方藩が再興されると再び同藩領となるが、享保五年(一七二〇)直方藩は廃藩となり、当村は福岡藩領に復した。
山部村
やまべむら
[現在地名]富良野市字山部・字山部市街地・字山部市街地一条通・字山部市街地二条通・字山部市街予定地・字山部空知川沿岸・字山部第一苗圃・字東山など
大正四年(一九一五)四月、下富良野村から分村して成立した空知郡の村。同八年四月に二級町村制を施行。昭和一五年(一九四〇)東山村(西達布地区)を分村、同四〇年町制を施行し山部町となる。富良野盆地の南端に位置し、村域の東側には平坦な沖積地が広がり空知川が北流する。芦別岳を主峰とする夕張山地に源を発する数条の小河川がほぼ並行して東流し空知川に注ぐ。
山部村
やまべむら
[現在地名]立科町山部
芦田村の北、小県郡を隔てる丘陵の東斜面に散在し、山部・真蒲・平林・滝の集落からなる。田用水に恵まれず、近世初期は湧水・溜池にたよっていた。
天正六年(一五七八)上諏訪大宮同前宮造宮帳に「外垣 七間半 葦田・山辺」とみえるのを地名の初見とするが、村内上房にある津金寺は平安時代初期には寺院として形を整えており、また境内に残る承久二年(一二二〇)、嘉禄三年(一二二七)建立の宝塔三基が、滋野氏一族のものであることから、望月牧に関係深い地方豪族滋野氏の勢力圏にあったことが知られる(北佐久郡志)。
山部村
やまべむら
[現在地名]吉田町山部
吉田村の北に位置し、北東の浅塚村(現甲田町)、西の相合村に囲まれる。「芸藩通志」に「広四町余、袤一里、東西北ともに山高く、南は平田なり」とある。村域は郡山城跡の裏側にあたり、多治比川の支流山部川が流れ、川に沿う道は毛利氏時代は吉田より甲立(現甲田町)・原田(現高宮町)方面への本往還であった。この道に沿って市の集落があり、胡社が現在も残る。
村の南にある甲山は、毛利・尼子両氏の郡山合戦の際、尼子方が陣取るべき要所であったが、「陰徳太平記」によれば「尼子晴久吉田の冑山に陣を取られなば、郡山を目の下に直下すべき間、如何に武き元就也共猛勢を嵩に引受け、纔の勢にて籠城一日も叶ふまじかりけるを、元就智謀に勝れたる名将なれば、此度も敵を方便て三猪口(青光井山)に陣をとらせられけるとぞ聞えし」とあり、これが毛利氏の勝因となったという。
山部村
やまぶむら
[現在地名]本匠村山部、大野郡三重町山部
羽木・堂ノ間両村の西、因尾川源流域の高地に立地。正保郷帳に村名がみえ、田高二七石余・畑高五二石余、因尾郷に属した。元禄見稲簿では因尾村の内で無高。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)では因尾村の枝郷で、地内に松葉・江平・屋形・小津留・河原内・津々良・登尾・上腰越・下腰越・平原・本山部・片内がある。
山部村
やまべむら
[現在地名]板倉町山部
大熊川が平野部に流れ出る扇状地に位置し、大熊川が東を北流する。南東は中野宮村、西は米増村に接する。戦国時代、箕冠城主大熊備前守三代の城下町で、山寺三千坊と称された山寺薬師の僧坊があったともいわれる。慶長三年(一五九八)以前のものと推定される検地帳(清水文書)によれば、田畑居屋敷合計四〇町二反余であった。
山部村
やまべむら
[現在地名]十王町山部
標高四〇―三九五メートルの多賀山地丘陵上に位置し、南は友部村。鈴平遺跡・山部遺跡・上の内遺跡が点在する。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「山辺村」と記され、同二一年の御知行割郷帳に「山部村」とある。「水府志料」によると村の東西二四町余・南北一里六町余、文化初年の戸数は八八であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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