十軒新田村(読み)じつけんしんでんむら

日本歴史地名大系 「十軒新田村」の解説

十軒新田村
じつけんしんでんむら

[現在地名]浜松市十軒町じつけんちよう

島之郷しまのごう村の東、馬込まごめ川両岸に集落を構える。西岸の集落は西十軒、東岸の集落を東十軒または向川原とよんだ。十間新田村とも記された。寛文三年(一六六三)検地帳(本間家文書)は西十軒と東十軒を別にして作成された。西十軒は屋敷一四筆、田三〇石余(うち上田二〇石余)・畑六七石余(うち上畑四九石余)、東十軒は屋敷六筆、田はなく、畑三七石余(うち下畑一七石余)、ほかに茅野五反余で一石余、芝野二町余で一石余、西十軒に屋敷を構える家は東十軒の耕地も所持する場合があった。

十軒新田村
じつけんしんでんむら

[現在地名]泉崎村踏瀬ふませ

阿武隈川の支流いずみ川北岸にあり、踏瀬村の東南東約一〇キロに位置する。北東部は山地で南・西部田地がある。延宝年間(一六七三―八一)結城白川氏の子孫で当時白河藩領須賀川代官であった相楽家により開発されて成立し、相楽さがら新田ともよばれた(西白河郡誌)。初め白河藩領、寛保元年(一七四一)越後高田藩領となり、浅川あさかわ代官所(現浅川町)支配、文化六年(一八〇九)幕府領となり高田藩預地として釜子かまのこ陣屋(現東村)支配、文政三年(一八二〇)以降幕府直轄領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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