千光寺跡(読み)せんこうじあと

日本歴史地名大系 「千光寺跡」の解説

千光寺跡
せんこうじあと

[現在地名]魚津市小川寺

小川寺おがわじ川右岸の舌状に延びた台地中腹にあった真言宗寺院。山号は小川山。かつては一六坊あったとされる。現在は高野山真言宗心蓮しんれん坊・光学こうがく坊・蓮蔵れんぞう坊の三ヵ寺と、三ヵ寺が共同で管理し輪番で勤仕する観音堂だけとなっているが、千光寺は寛文年中(一六六一―七三)までは残っていたらしい(心蓮坊由緒書)。天正八年(一五八〇)四月に千光寺第五一世勝道坊覚盛によって書かれた小川山千光寺記(遺編類纂所収千光寺文書)によると、天平一八年(七四六)に行基によって開かれた。大同元年(八〇六)三月一五日、片貝かたかい川河口の経田きようでん村の漁師後藤の網にかかった金色千手観音像と大威徳明王像を、住僧永観が本尊として安置、さらに奥院としてほとけヶ岳(僧ヶ岳三峰の一)を開山して大威徳明王を安置し、やがて平城天皇の御願所となった。延喜年中(九〇一―九二三)に中興した覚祐律師より数えて二三世にあたる住持覚信(中納言藤原基家の猶子)は、文永年中(一二六四―七五)蒙古襲来に際して朝敵退散祈願の宣旨を受け、寺号を鎮護国豊寺と改称し、亀山天皇の勅額を下付されるとともに布施ふせ谷一帯を寄進され、七堂伽藍が整った。


千光寺跡
せんこうじあと

[現在地名]都万村都万

都万にあった真言宗寺院。明治初年廃寺となる。山号は繁滝山。天健金草あまたけかなかや神社の別当寺で、中世の都万院内で最も大きな勢力を誇ったといわれる。正和元年(一三一二)の天健金草神社棟札写(古木家文書)に「正和元年壬子供養導師千光寺快義」とみえ、至徳二年(一三八五)高田たかた神社の建立や、同四年の至徳百首和歌の寄進にも大きくかかわったと考えられる(高田大明神青表紙縁起)。長禄二年(一四五八)の天健金草神社造営でも千光寺快順が供養導師を勤め、これには院内の同じ真言宗の光山こうざん(那具)法正ほつしよう(津戸)道場どうじよう(都万)長楽ちようらく(都万)から僧が参加している(「天健金草神社棟札写」古木家文書)


千光寺跡
せんこうじあと

[現在地名]東洋町甲浦

甲浦かんのうら内港の中央、かぶと山の後方山上にあり、現在は山畑となり石垣だけが残る。真言宗最御崎ほつみさき(現室戸市)の末で、那智山竜花院と号した。本尊は千手観音。山号の那智山は往古二子ふたご島に飛来した熊野の神体を、この寺の境内に秀倉を建てて勧請したというゆかりによる。熊野神社が甲山に移ってのちも別当寺を務めた。

天正一七年(一五八九)の甲浦地検帳には「千光寺中三ダン懸」の二一代三歩が千光寺領とあり、「南路志」によれば寺地二二代五歩のほかに、甲浦片谷かただにで開発した新田四反を寺領として公認されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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