南レバノン問題(読み)みなみればのんもんだい(英語表記)Situation in South Lebanon

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

南レバノン問題
みなみればのんもんだい
Situation in South Lebanon

イスラエル軍が安全保障地帯として1978年から2000年まで占領していたレバノン南部の問題。
 発端は1970年にヨルダンを追放されたパレスチナ解放機構(PLO)がレバノンに本部を移転し、南レバノンを対イスラエル闘争の前線としたことに加え、1975年から始まったレバノン内戦でレバノン政府軍が事実上解体したことにある。
 パレスチナのゲリラに対する越境攻撃を繰り返していたイスラエル軍が最初の大規模なレバノン侵攻を行ったのは1978年3月。国連安保理は425決議を採択してイスラエル軍の即時攻撃中止と撤退を求めたが、イスラエルは南レバノンに自由レバノン軍(のちの南レバノン軍SLA:South Lebanon Army)を組織してパレスチナのゲリラに対抗させ、1982年には首都ベイルートに侵攻してPLO勢力をレバノンから駆逐した。
 PLOにかわって対イスラエル闘争の前線にたったのが、アマル(1974年結成)やヒズボッラー(1982年結成)などのシーア派民兵組織で、自爆テロを頻発させた。1985年、イスラエル軍はレバノン中央部からの撤退を余儀なくされたが、このとき、南レバノンに一方的に安全保障地帯を設置、事実上の占領が続いた。1996年のイスラエル軍による「怒りの葡萄(ぶどう)作戦」では、侵攻軍が国連レバノン暫定軍(UNIFIL:United Nations Interim Force in Lebanon)駐屯地を攻撃、避難していた市民が多数死亡した。
 イスラエル国内では、自国兵士の死傷者が多いことから南レバノン占領を見直す動きが出始め、1998年4月、安全保障閣議が条件つきで国連安保理決議425の承認を決めた。イスラエルのバラク首相は、就任直後に1年以内の南レバノンからの撤退を決めたが、ヒズボッラーなどの攻撃が激しく、予定を前倒しして2000年5月に、係争地であるシェバア農場を除いて撤退を完了した。翌月、国連のアナン事務総長がイスラエル軍の撤退とSLAの解体を確認する報告書を提出し、22年にわたる占領が終わった。
 パレスチナの被占領地では、南レバノンからのイスラエル軍撤退がヒズボッラーの武力闘争の成果として受け止められ、2000年9月からのアル・アクサ・インティファーダ(第二次インティファーダ。インティファーダの語は民衆蜂起を意味する)の誘因の一つともなった。
 その後、南レバノンでのイスラエル軍とヒズボッラーの衝突は散発的に続き、2006年7月には、ヒズボッラーがブルーライン(2000年のイスラエル軍撤退時に国連が画定した境界ライン)を越えてイスラエルをロケット砲で攻撃した。これがきっかけとなり、激しい交戦が約1か月続いた。国連の仲介によって停戦が成立し、2006年8月に採択された安保理決議1701によって、それまで2000人規模だったUNIFILが最大1万5000人まで増強されたほか、レバノン海域でのパトロールを行うようになった。[勝又郁子]

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