印パ関係(読み)いんぱかんけい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「印パ関係」の意味・わかりやすい解説

印パ関係
いんぱかんけい

インドパキスタン(印パ)の対立的な二国間関係。第二次世界大戦後、英領インドの独立が確定的になったとき、英領インド内では新国家の形態をめぐって、統一インド論(インド国民会議派)と二国家論(インド・ムスリム連盟)が激突した。前者はヒンドゥー教徒とムスリムイスラム教徒)が共存する政教分離の国家を唱え、後者はインド亜大陸にヒンドゥーとムスリムの二民族が存在する以上、ヒンドゥー国家とムスリム国家という個別の二国家が建国されて当然であると主張した。結局、二国家論が容認され、1947年8月、インド(ヒンドゥー多住地域)とこれを東西の飛び地で挟むパキスタン(ムスリム多住地域)が英領インドから分離独立した。分離独立に伴って、総計約1000万人とも見積もられる人々がそれぞれ――ムスリムがインドからパキスタンへ、ヒンドゥーがパキスタンからインドへ――移動した。移動の際、大規模な略奪殺戮(さつりく)、暴行が発生して、相互が敵対観をもつに至った。分離独立に反対し、ムスリムとの宥和(ゆうわ)を呼びかけたガンディーは、1948年1月、狂信的なヒンドゥー教徒に暗殺された。

[堀本武功]

独立以来の対立の経緯

相互の敵対感は、1947年10月から始まる第一次印パ戦争でさらに抜き差しならぬものとなった。この戦争は現在までに三度(1999年のカールギル戦争を含めれば四度)繰り返された印パ戦争の初回にあたり、主因がインド亜大陸北部にあるカシミールの帰属問題であった。パキスタンは、英領インドのムスリム多住地域をもって建国され、ムスリム国家の理念を掲げる以上、ムスリム多住地域のカシミールが自国領となるべきだと考え、インドにあることを容認できない。逆にインドは、ヒンドゥー教徒が総人口の8割を超えながらも、カシミールが国内にあることで、国是ともいうべき政教分離主義を喧伝(けんでん)できるのである。第一次印パ戦争には、国際連合が調停に乗り出して1949年1月に停戦が成立し、7月に印パにカシミールを区画する停戦ラインが設定された。全カシミール(面積約22万平方キロメートルで日本の本州に相当)の半分弱をインド、36%をパキスタンがそれぞれ保有し、カシミールの一部であるアクサイチン(約17%)は1950年代に中国の管理下に入った。第二次印パ戦争は、1965年9月、カシミール地方と西パキスタンとインドの国境を主戦場として展開された。1971年12月に発生した第三次印パ戦争は、東パキスタンのパキスタンからの独立問題をめぐって東パキスタン内と西部印パ国境で戦われた。この印パ戦争は南アジアというリージョナル(地域)レベルの戦争であったが、インドをソ連、パキスタンをアメリカ・中国がそれぞれ支持したため、国際紛争の様相を呈した。第三次戦争で東パキスタンがバングラデシュとして独立した結果、南アジア世界の力関係が地滑り的な変動をみせた。飛び地国家パキスタンが解体され、軍事戦略上のインドの優位は決定的となった。インドは、東西パキスタンからの挟撃という戦略的な脅威を取り除くことに成功し、北部の中国と西部のパキスタンに目を向ければ足りることになったからである。しかも1974年5月には、インドはラージャスターン州の砂漠で初の核実験に成功した。パキスタンに隣接する同州での実験はいかにも刺激的であった。実験直後、パキスタンのブット首相は「パキスタンは草を食べても核武装する」と記者会見で語り、1970年代に入って始動した核開発をさらに加速させる決意を示した。

[堀本武功]

冷戦終結後も続く対立関係

冷戦期における印パ関係は、国際的な冷戦構造の余波を受ける形で推移した。1990年代に入って冷戦が終結すると、新たな関係が構築される期待も高まった。しかし、現実には印パ間の最大懸案であるカシミール問題根因とし、これに核とテロの問題が絡まって、印パの対立関係はいっこうに改善していない。

 インド側カシミールでは、1989年以降、分離運動が高まりをみせるようになる。当初は比較的穏健な運動であったが、徐々にムスリム過激派によるテロ活動が中心になっていった。過激派は現地ムスリムが主体であったが、1990年代中ごろ以降は州外のムスリムが主流となった。代表的な組織がラシュカル・エ・タイバ(純粋者の軍隊の意。略称LeT)である。LeTはパキスタンのCIAと称されるISI(三軍統合情報部)が背後で糸を引いているとも、タリバンやアルカイダと関係するともいわれる。パキスタン政府は精神的な支援を公言するものの、過激派に対する物質的な援助を否定してきた。

 印パ関係をさらに複雑化している要因が、核問題である。インドが1998年5月に2回目の核実験を実施すると、パキスタンもただちに後追いして世界を驚愕(きょうがく)させた。パキスタンからみれば、国土面積が約4倍、総人口約7倍の隣国インドが核を保有した以上、安全保障上、対応策をとらざるをえない。翌1999年の5月~7月には、第四次印パ戦争ともいわれたカシミール地方でのカールギル戦争が発生すると、核戦争へのエスカレートを恐れたアメリカ、イギリスなどがその沈静化に努めた。その後、2001年12月にインド国会議事堂襲撃事件、2002年5月にジャム・カシミール州の陸軍駐屯地に対するテロ攻撃事件が起き、インドが対パキスタン姿勢を硬化させると、印パ関係が緊張した。いずれも、LeTが主犯と目された。しかし、投資環境の悪化を恐れるインド、自国イメージの低下を避けたいパキスタンの思惑に、アメリカの両国に対する宥和圧力もあり、印パは2004年2月から両国間の包括的対話を開始させた。対話は両国間の陸路交通の開始など一定の成果をあげた。しかし、2008年11月、約170名が殺害されたムンバイ・テロ事件が起きると、インド政府は、このテロ事件がLeTによって引き起こされたと主張し、パキスタン政府が対応措置を実施しない限り、対話の続行を拒否した。ようやく2010年6月に対話が再開されたが、前途は多難である。背景には、タリバンやアルカイダのねらいもある。つまり、パキスタン軍と米軍とがパキスタン・アフガニスタン国境で対タリバン作戦を強化させているため、印パ関係を緊張させてパキスタン軍をインド側国境に移動させることで、米パ作戦を弱体化させたいというねらいである。いっこうに印パ関係が改善しない状況は、世界大国を目ざすインドにとって最大のアキレス腱(けん)となっている。

[堀本武功]

『S・P・コーエン著、堀本武功訳「インドとパキスタンはなぜ対立するのか」(『アメリカはなぜインドに注目するのか――台頭する大国インド』所収・2003・明石書店)』

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