インドの政治指導者で思想家。「マハートマー(偉大なる魂)」「ラーシュトラ・ピター(国の父)」「バープー(父)」などいくつかの呼称をもち、今日なおインド人大衆の尊敬と親愛の的となっている。
[内藤雅雄]
インド西部カーティアワール半島にあった小藩王国ポールバンダルのディーワーン(宰相)の長男として生まれた。4年間のロンドン留学により法廷弁護士(バリスター)の資格を得て、1891年にインドに帰着。1893年に、あるムスリム(イスラム教徒)商人の訴訟事件の依頼を受けて南アフリカのナタールに渡ったことで、彼の人生はコペルニクス的転回を経ることになった。すなわちそこに働くインド人年季雇用労働者たちの市民権獲得のための運動を指導することとなり、22年間ここに滞在し、自ら「サティヤーグラハ(真理の把握)」と名づける大衆的な非暴力的抵抗闘争を成功へと導いた。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)直後の1915年1月に、イギリス経由でインドに戻った。この南アフリカ時代に書かれた『ヒンド・スワラージ(インドの自治)』(1909)という小冊子には、独自のインド文明観、農村手工業の発展を強調するインド社会・経済論が展開されている。
[内藤雅雄]
帰国直後は政治家ゴーカレーの助言でインド内の政治、社会状況の観察と検討に専念するが、1917年にはビハール州チャンパーラン県でのインジゴ(藍(あい))栽培小作人の争議、翌1918年には故郷グジャラート、アーメダバードの繊維工場労働者の争議を、独特のアヒンサー(非暴力)の原則を貫徹して解決した。アーメダバードの場合、これ以後彼がしばしば用いた断食の行が初めて試みられた。
彼の名をインドにおける大衆的政治運動の指導者として揺るぎないものとするのは、第一次世界大戦後のローラット法反対、ジャリアンワーラーバーグ(アムリッツァル)虐殺事件糾弾、ムスリムのキラーファト(トルコのカリフ制)擁護を求める声などを背景に1919~1922年に展開された第一次サティヤーグラハ(非暴力的抵抗)闘争であった。ついで1930~1934年には、イギリス支配の一つの象徴としての食塩専売の侵犯(いわゆる「塩の行進」)に始まる第二次サティヤーグラハ闘争を指導し、これを通じて農民大衆を含むインド内のあらゆる階級、階層の人々を未曽有(みぞう)の規模で反英政治運動のなかに結集していった。
彼はまたこの過程で、J・ネルーを先頭とする少数派の進歩的グループと、サルダール・パテールやR・プラサードら多数派の保守グループを国民会議派という組織のなかで巧みに統合し、またビルラ財閥に代表されるようなインド民族資本の主流派を引き付けることによって、国民会議派を最大の大衆的民族運動組織として成長せしめた。ただ同時に注意すべきは、バールドーリ決議(1922)やガンディー‐アーウィン協定(1931)にみられるように、自ら理念とするアヒンサーの原則を絶対化するあまり、大衆運動が高揚して彼ないし国民会議派指導部の指令の枠外に発展しようとすると運動の停止を命じ、全体としての大衆的反帝国主義闘争の進展を妨げることになった点である。彼はまた労働者や農民の運動が階級闘争的色彩を帯びることには徹底して反対した。前述のアーメダバードでの労働争議の過程で、彼自らが指導する労使協調型のアーメダバード労働連盟(ALA)が結成されるが、これはその後、国民会議派主導の労働組合運動のモデルとなり、独立直前の1947年5月に発足したインド国民労働組合会議(INTUC)は、まさにこの路線上に位置づけられるものにほかならなかった。
[内藤雅雄]
ガンディーはまた前述のような政治運動を進めるなかで(あるいはそれが停止された時点で)、インドの直面する多くの社会問題の解決に取り組んだ。たとえば1920年代から始まる全インド紡糸工連盟設立による農村手工業の発展、1930年代からの不可触民(「ハリジャン―神の子」と彼はよんだ)解放の運動、ヒンドゥー・ムスリム間の統合、新教育(ナイー・ターリム)運動などがそれで、総称してこれらは「建設的プログラム」とよばれた。これらの運動促進のため、新聞『ハリジャン』の発行(1933年2月)や、アーメダバードのサーバルマティやワルダーでのアーシュラム(道場)の建設を行っている。
ムスリム連盟の指導者M・A・ジンナーとは鋭く対立し、そのパキスタン建国論に反対したが、結局1947年6月に出たマウントバッテン裁定に盛られたインドの分離独立案を国民会議派指導部が承認するのを抑止できなかった。独立後の1948年1月、狂信的ヒンドゥー主義者の凶弾によって倒れた。『自伝―真理の実験』(1927~1929出版)と題する半生記は、試行錯誤の過程を経つつ真理への接近を図ろうとする「マハートマー」の人間的な姿をよく伝えている。
[内藤雅雄]
『ナンブーディリパート著、大形孝平訳『ガンディー主義』(岩波新書)』▽『山折哲雄著『ガンディーとネルー』(1974・評論社)』
インドの政治家。インド共和国初代首相ネルーのひとり娘としてアラハバードに生まれる。生地のほか、イギリス、スイスで教育を受け、インドのシャンティニケタン、イギリスのオックスフォード両大学に学ぶ。この間12歳のときに反英運動に参加したが、1942年の「インドを立ち去れ(クイット・インディア)」運動での投獄により本格的政治運動に入る。逮捕直前フェローズ・ガンディー(のち下院議員、1960年死去)と結婚、その後ラジブ(1944年生まれ、1984年首相就任、在任中の1991年暗殺された)、サンジャイ(1946年生まれ、1980年飛行機事故で死亡)の2子をもうける。
独立後、ネルー首相のホステス役として政治経験を蓄え、1955年国民会議派運営委員就任。1959年には同議長としてケララ州共産党政権の解任にかかわる。1964年シャストリ内閣の情報相となり、1966年1月、シャストリ首相急死により、首相就任。1967年総選挙での後退ののち、急進的姿勢を強め、大統領選挙を直接のきっかけにして党の分裂を強行した。1971年12月の対パキスタン戦争勝利(バングラデシュの独立)で名声は頂点に達したが、その後のインフレ、食糧危機、政治腐敗への野党などの批判を非常事態宣言(1975年6月)で抑えた。1977年3月の総選挙では非常事態への国民の反発により敗北を喫したが、ジャナタ党政権の失政に乗じて1980年1月政権に復帰した。この政権のもとで、中央集権制が強化され、州の自治権拡大を求める野党との対立が鋭くなった。なかでも北西部パンジャーブ州の自治権要求をめぐってガンディー政権とシク教徒の対立が激化、1984年6月シク教徒の分離主義者排除のためにシク教総本山ゴールデン・テンプル(黄金寺院)に軍隊を導入したことがシク教徒の反発を招き、同年10月31日護衛のシク教徒警官により暗殺された。
[佐藤 宏]
インドの政治家。インディラ・ガンディーの長男。インド国内で教育を受けたのち、ケンブリッジ大学で機械工学を学ぶ。インド国内航空の操縦士であったが、1980年、インディラの後継者と目されていた弟サンジャイが事故死したため、政界入りを余儀なくされる。1981年連邦下院議員に当選。1983年与党国民会議派の党総務。1984年11月、インディラの暗殺直後、首相に就任。同年12月の連邦下院議員選挙で大勝し、国民の信任を得たが、1991年5月21日暗殺された。妻ソニアはイタリア人。
[佐藤 宏]
インドの政治指導者,思想家。〈バープー(父)〉〈マハートマー(偉大な魂)〉と称され,インド人大衆に親しまれた。カーティアーワールKāthiāwār半島の小藩王国ポールバンダルの大臣の長男として生まれた。4年間のロンドン留学で弁護士資格を得て1891年帰国。93年にある訴訟事件の依頼で南アフリカのナタールに渡ったことでその人生はコペルニクス的転換を見る。すなわちそこに働くインド人年季契約労働者の市民権獲得闘争を指導することとなり,自ら〈サティヤーグラハ(真理の把持)〉と名付ける大衆的非暴力抵抗運動を成功に導く。22年間アフリカに滞在し,第1次大戦勃発後の1915年1月インドに戻る。アフリカ滞在期に執筆された《ヒンドゥー・スワラージHindū Swarāj(インドの自治)》(1909)という小冊子は,彼の特異な文明観,農村手工業の発展を強調するインド社会論を展開している。17年にビハール州チャンパーラン県でのインディゴ(藍)小作争議,翌年グジャラート州アフマダーバードの繊維労働者の争議を〈アヒンサー(非暴力)〉の原則を貫徹して解決。そして第1次大戦後,ローラット法反対,アムリッツァル虐殺糾弾,ムスリムのヒラーファト運動を糾合して19-22年に展開された第1次サティヤーグラハ闘争は,彼をインド民族運動の最高指導者として位置づけた。30年には,イギリス行政の象徴である塩税の侵犯(塩の行進)に始まる第2次サティヤーグラハ闘争を指導し,これを通じて農民大衆を含むインド内のあらゆる階級・階層の人々を未曾有の規模で反英政治闘争に組み入れていった。彼はまたこの過程で,少数派ではあるがJ.ネルーを先頭とする国民会議派内急進派と,V.パテールやR.プラサードら多数・保守派を会議派組織の中で巧みに統合し,かつビルラー財閥をはじめとするインド民族資本の支持をもとりつけることによって,会議派を最大の大衆的民族運動組織へと成長させた。ただ同時に,バールドーリー決議(1922)やガンディー=アーウィン協定Gāndhī-Irwin Pact(1931)にみられるように,その理念とする〈アヒンサー(非暴力)〉の原則を絶対化するあまり,大衆運動が高揚した時に彼ないし会議派指導部の思惑外へそれが発展しようとすると運動の停止を命じ,全体としての大衆的反帝国主義闘争の推進を妨げることもあった。彼はまた,農民や労働者の運動が階級的色彩を帯びることには徹底して反対した。彼はインド民族の政治的独立と同時に,インド社会に巣食う不可触民制やヒンドゥー・ムスリム対立の除去という課題にも真摯に取り組むが,最終的には会議派指導部のインド分割承認への動きを阻止することはできず,独立後の48年1月30日,狂信的ヒンドゥー主義者の手によって暗殺された。《自叙伝--真理の実験An Autobiography--The Story of My Experiments with Truth》(1927-29)と題した彼の半生記は,多くの試行錯誤を通じて真理に肉迫せんとする〈マハートマー〉の人間的な姿をよく伝える書物である。
執筆者:内藤 雅雄
初代インド首相J.ネルーの一人娘で,女性政治家。イギリスに留学。1942年,パールシー(ゾロアスター教徒)の政治家フェローゼ・ガンディー(1913-60)と結婚。長男ラジーブ(1944-91)と次男サンジャイ(1946-80)の2人の息子を生む。父ネルー首相のもとで政治活動に入り,59-60年インド国民会議派総裁を経て,66年1月首相に就任した。69年の与党国民会議派の分裂,71年の第3次印パ戦争勝利を経て,強大な支配権を確立した。75年6月,反政府運動を抑えるため非常事態宣言を発するなど強圧策をとったが,77年の総選挙で敗北し野に下った。しかし,80年の選挙で再度首相の座についた。強権政治への志向,ねばり強さで知られたが,84年10月シク教徒に暗殺された。
執筆者:清水 学
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1869~1948
インドの政治家,社会活動家。マハートマー(偉大な魂)と呼ばれる。インド西部,カーティヤーワード半島の出身。イギリスに留学して弁護士資格を取得。1893年から南アフリカに滞在し,インド人差別への反対運動を指導するなかで,非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)を生み出した。南アフリカ時代に執筆した『ヒンド・スワラージ(インドの自治)』では,近代文明を批判し,独自のインド社会像を示した。1915年にインドへ帰国した後は,イギリス支配に対抗して非協力運動,市民的不服従運動などを組織した。また,インド国民会議派の求心力としての役割も果たしている。不可触民差別やヒンドゥー‐ムスリム間の対立の問題などにも取り組んだほか,農村産業の育成や教育の見直しなどの構想を提起した。インド・パキスタン分離独立後,48年1月にヒンドゥー教徒過激派によって暗殺された。
1917~84
インドの政治家。インド初代首相ネルーの娘。66年首相に就任したが,党内保守派と対立し,69年に党を分裂。70年代には銀行の国有化など社会主義的政策を展開し,貧困追放を叫び大衆の人気を得たが,失政のため77年に失脚。80年に政権に返り咲くが,パンジャーブの分離主義過激派鎮圧に反発したシク教徒によって84年10月に暗殺される。
1944~91
インドの政治家。インディラ・ガンディー首相の長男。母のあとを継ぐため政界入りし,1981年に下院当選。84年に母が暗殺された後,国民会議派総裁となり首相に就任(在任1984~89)。91年にスリランカ分離主義過激派によって暗殺される。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 分割にともなう混乱のうちもっとも深刻だったのは宗教暴動の続発,パンジャーブ州とベンガル州の真ん中に人為的に引かれたインドとパキスタンの東西の国境線を越えての住民の移動(ヒンドゥー教徒とシク教徒がインドに,ムスリムがパキスタンに),大量の難民の発生である。会議派のシンボル的な存在であったM.K.ガンディーはこのような状況をみて独立達成の意義に疑問をもつようになっていたが,彼自身もそのムスリムへの宥和的態度を憎む狂信的なヒンドゥー教徒によって48年1月にニューデリーで暗殺された。
[ネルー政権の基盤]
独立によって総督,あるいは共和制に移行してからの大統領の地位は名目的なものとなり,政治の中心は連邦首相に移った。…
…この過程を通じて,議会選挙の有権者の範囲は拡大されたが,ムスリムに独自の議席を設け,宗教徒間の対立を醸成した。一方インド人の独立運動は国民会議派が主導して進められ,ガンディーの説くサティヤーグラハという非暴力抵抗が運動の精神となったが,20年代以後には社会主義が叫ばれ,また農民運動と労働運動が独立運動の要素となった。 第2次世界大戦後,イギリス側は行政・軍事の面でインドを統治する実力を失い,高等文官を供給することができず,あらゆる官職のインド人化が急速に進んだが,パキスタンの分離を叫ぶムスリム連盟はムスリムを代表する政党と見なされ,国民会議派と激しく対立したため,インド独立は遅れた。…
… こうした背景から,初期の国民会議派はきわめて限られた階級・階層の利害を代弁する穏健な組織で,しばしばイギリス統治の安全弁といわれた。しかし20世紀初頭〈ラール・バール・パール〉と呼ばれたL.ラージパット・ラーイ,B.G.ティラク,B.C.パールら急進的民族派が主導権を握って展開した1905‐08年の〈ベンガル分割反対闘争〉,第1次大戦後19‐22年および30‐34年のガンディー指導下の〈サティヤーグラハ運動〉を通じて,インド人大衆の反英・反帝国主義運動の中枢的組織へと発展していく。特にこの間ガンディーの独特の主導の下で,P.J.ネルーを先頭とする少数=急進派とV.J.パテールやR.プラサードら多数=保守派が最高指導部として巧みに統合され,州・県・郡・村とつながる確固たる組織網が形成された。…
…〈真理(サティヤ)の把捉(アーグラハ)〉の意で,インド独立の父といわれるM.K.ガンディーの政治闘争の理念。ガンディーは,1893年南アフリカにインド人商社の顧問弁護士として赴いた(1914まで)が,同地での厳しい人種差別政策に抗して,インド人移民の基本的人権を確立する闘争を指導した。…
…初期においてはヒンドゥーとムスリムの統一に基づく民族運動の路線を進み,16年ムスリム連盟議長となり,インドの自治に関する国民会議派・ムスリム連盟協定の成立に尽力し,自治要求連盟でも積極的役割を果たした。しかし20年のガンディー指導の非暴力的抵抗闘争には強く反対し,会議派を離れた。20‐30年代初め,長くロンドンに滞在する中で,インド・ムスリム独自の利害擁護の方向に傾いた。…
…ヒンドゥー教の聖人やヨーガ行者たちのあいだで,断食は日常的な身体訓練であると同時に神に仕える聖なる手段であった。近代のできごととしてはM.K.ガンディーの断食による政治的抵抗がよく知られている。またヒンドゥー教の影響をうけた密教では断食行が重視されたが,仏教の一般的な原則としては八種斎戒の一つとしての非時食を中心とする精進行(しようじんぎよう)が主流を占めた。…
…綿花,羊毛,まゆなどから糸を紡ぐのに使う手動の器械で,古くインド農村手工業において重要な役割を果たす。イギリスによる植民地化過程で農村手工業は壊滅し,手紡ぎ車も放棄されたが,1920年代の民族運動の中でガンディーがスワデーシー運動の一環として,農村経済自立を目指すチャルカーによる手紡ぎ綿糸とカーディー(手織綿布)の生産奨励に乗り出した。これによりチャルカーは蘇生し,以来国民会議派の運動の象徴とさえなる。…
…このようにホブソンの《帝国主義論》は時流に鋭敏な対応をし,帝国主義の改革の目標を明示したために大きな影響力をもつにいたった。 第2は,ガンディー主義の形成である。M.K.ガンディーは1893年より1914年まで南アフリカで弁護士としてインド人(大多数はクーリーと呼ばれた契約労働移民)の人権を確立する闘争を行った。…
…第1次世界大戦後のイギリスの対トルコ政策,とくにイスラム国家最高主権者カリフの廃止をめぐり,カリフ制擁護を掲げてインド・ムスリムが立ち上がった反英闘争の一つ。アリー兄弟,アーザード,モハニらが結成したヒラーファトKhilāfat委員会に対して,この問題をヒンドゥー・ムスリム統一強化の好機とするガンディーは,国民会議派組織を挙げてこれに合流,自ら全インド・ヒラーファト委員会議長となる。多くのムスリム大衆は〈ヒラーファト〉の意味をカリフ制ととらず,イギリスへの〈対抗〉(キラーフ)と考えていたといわれるが,従来ムスリム連盟が組織しえなかった農村ムスリム大衆を反英民族運動に糾合した歴史的意味は大きい。…
…とくに1930年代からは,ヒンドゥスターニー語の話される地域において,諸組織の言語をめぐる動きがイギリスの分断統治政策に巻き込まれて,宗派対立の様相を呈してきた。その対立を克服すべく,M.K.ガンディーはインドの最も多くの人が解する平明なヒンドゥスターニー語を,デーバナーガリー文字またはペルシア文字のうち各人の好むほうで表記しながら普及させようとの運動を始めた。それは,イギリス統治からの独立後に統一インドを実現する志向とも重なる努力であるが,ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立の激化のために実現されなかった。…
…4バルナに属する一般住民(カースト・ヒンドゥー)にけがれを与える存在とみられ,〈触れてはならない〉人間として社会生活のすべての面で差別されてきた。ヒンディー語でアチュートachūt,英語でアンタッチャブルuntouchable,アウト・カーストout‐casteと呼ばれ,またガンディーは彼らに〈神の子〉を意味するハリジャンharijanという呼称を与えた。欧米ではパリアpariahの名でも知られる。…
…19年,39歳で学士試験に合格。21年ガンディーの非暴力不服従運動の呼びかけに応じ,21年間の教職を辞任。ヒンディー語で書かれた長編小説《休護所》(1918),《愛の道場》(1922)で社会改良の理想を描き,《人生劇場》(1924),《行動の広場》(1932)で,ガンディーの思想と行動の理解,解説に努め,晩年にはソ連の動きに心を動かされながら,虐げられた人々,悲惨な農民の生活と運命を,自らの造語でいう〈理想主義的写実主義〉の立場に立って描いた。…
…異文化間接触による平和の意味の変容がその例である。ガンディーの非暴力〈直接抵抗〉の原理の樹立と実践は,インドの平和観に支配的なアヒンサーと,不正義に対する〈否〉を教えるキリスト教の理念との接触による変容の所産であり,また不正義に力を対置させるアメリカ人の開拓精神とキリスト教文化の伝統のなかにいたM.L.キングの〈非暴力〉直接行動は,逆にガンディーの影響なしにはありえなかったであろう。これらは異文化間の正の学習結果であるが,負の学習もある。…
※「ガンディー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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